サンダーソードさんの過去のタイムライン
2018年12月
kureha1904⇒サンダーソード | |
2018/12/26 13:10[web全体で公開] |
サンダーソード⇒フィルヒョウ | |
2018/12/19 12:59[web全体で公開] |
『「集団の都合」が効力を持つ』というのが何を指すのかが分からないのでなんとも言えませんが、まず、集団の目的(国民のよりよい生活)に沿うか反するかが善悪です。そして集団の都合に反する悪を放っておくと集団が崩壊してしまうので「罰」を抑止力にした「罪」を決めてます。その罪を決めているのが現代日本では「法律」なわけですね。 正直社会科はちゃんと学んでないんで憲法とかよく知らないんですが、多分そうなんじゃないですかね。日本の場合敗戦して押し付けられてる分、他国の都合もがっつり入ってますけど。
フィルヒョウ⇒サンダーソード | |
2018/12/19 08:27[web全体で公開] |
お答えありがとうございます。つまり集団の目的に反した行動をとる人が悪なのですね。 理解いたしました。 ずっと「集団の都合」という部分が引っかかっていたもので、「集団の都合」ってだれかがたやすく策定するものじゃないの?って「集団の目的」がベースとなって「集団の都合」が策定された場合に「集団のの都合」が効力を持つということですね。 (ともちょっとちがうのかな、集団の都合の語用の問題だった気もする) そういえば、国家における集団の目的は憲法と合致する、していなければならないと自分は思うのですが、どうでしょう。
サンダーソード⇒フィルヒョウ | |
2018/12/18 23:36[web全体で公開] |
その場合はその少数の人が悪ですねー。国家の目的は変わってません。その少数の人が国家の目的に反して、集団内部での位置づけを利用し、集団を犠牲にして利己を追求してるだけです。この辺は主権の問題にも関わってきますかね。幸い日本には国民に主権があるので、皆がちゃんと政治に目を向けてればアホやってる政治家を止めることも出来ますし、しっかりした人が立候補することも出来ますし、そういう人を選ぶことも出来ます。ちゃんと目を向けてれば。 後者の件ですが、「善悪」と「行動基準」をごっちゃにしてたり、集団や主権者が目的を見失って迷走してることが原因だと思います。ちゃんと定義が分かってないと「偉い人が声高に叫ぶ正義や善に偽装した何か」に流されて容易く扇動されちゃうんですね。「私達の生活が苦しいのは奴らのせいだ」、なんて具合に。「国家という集団」と「国家を動かす政治家」の都合は同じとは限りません。騙されて動くと、善行のつもりで悪行をしていた、なんてことになるわけです。そしてその「普遍的なもの」というのがまさに定義であり、善悪の場合「集団というシステムの都合である」ってことです。
フィルヒョウ⇒サンダーソード | |
2018/12/18 22:26[web全体で公開] |
> 日記:良い指摘があったので回答。500字以下略。 サンダーソードさん、お答えありがとうございます。 サンダーソードさんにとっての善と悪の概念についての見解、大変興味深かったです。 しかし、新たな疑問も生まれました。 国民の生活をより良いものにするはずの国家が少数だけの利益を追求する法律を作り、その法律に反対する人を弾圧するような法律も作った場合、国家の目的に対しては善だけれど国家の都合には悪な人たちが生まれると思います。 このような人たちはサンダーソードさんにとっては善と悪どちらなのでしょうか。 (以下ちょっと自分語りです、すいません) 自分はやはり善悪というものはある種普遍的なものだと思います。 サンダーソードさんにとってみればこの考え方は植えつけられたリ、他人に影響されたりしたものなのかもしれませんが、普遍的な善悪を定義づけしない限りホロコーストのような災厄がまた繰り返されるようになるのではないでしょうか。 サンダーソードさんの定義によればあの行為は善だったのでしょうが、自分はそうではないと思います。
サンダーソード | |
2018/12/18 20:19[web全体で公開] |
😶 良い指摘があったので回答。500字以下略。 『「集団の都合」と「集団が生きられるかどうか」が必ずしも合致するとは思えません。 しばしば引用される4人の漂流した船乗りが3人だけ生き残るために衰弱した1人を殺して食べて生き残る話がありますが、仮に4人で共倒れで死ぬことを決意して死んだときにはそれは悪なのでしょうか? サンダーソードさんにとっての善は集団によって決められたことですか?それとも生きるための選択ですか?』 という指摘と質問がありました。まずはこれに対する返答。 これは「集団」が生き残ることじゃないですね。個人が4人いて、各々が生き残るために動くか、あるいは「個人の価値観」のために死んでもやりたくないことをやらないかって状況です。それでも無理やり4人を集団だとして区分して善悪を考えるなら、集団であるための共通目的がいります。目的のない集団に善も悪もないですよね。4人の集団の目的を「その4人の中で誰か一人でもいいから生き延びること」とすればせっかく作った食料を食べずに破棄するのは悪ですし、「誰一人犠牲にせず生き延びる道を模索する」とすれば殺して食べるほうが悪ですね。 って辺りまで書いたところで前の日記読み直して、私が定義を間違えてることに気付きました。「善悪とは集団が生き延びるための仕組みである」ってのは集団の目的が生き延びることになってる場合に限定されますね。申し訳ない。 正しくは「善悪とは、集団というシステムの都合である」となります。集団の都合に沿っていれば善。集団の都合に反していれば悪。これについてもうちょっと説明してみましょうか。「集団とは、その所属者が互助することで個人で提供する労力以上の利益を享受するための仕組み」で、「国家という地球上で最大の集団の目的は、国民の生活をより良いものにすること」であり、当然ですがその目的の中には「生物としての第一義である生き延びること」も含まれます。その中にある小集団は大集団である国家の影響を受けますし、国家の都合に反していれば悪となるので、自然と小集団の都合も国家という大集団の都合にある程度従うものとなります。集団に所属する個々人もそういった環境下で生活しているため、経験則でもある程度善悪とはそんなもんじゃないかと身につけるでしょう。ですがこの経験則で止まると、個々人の経験によるところなので善悪の基準がバラバラだ、ってことになってしまうわけです。で、そういう環境下で生きてきたため、善を快と、悪を不快と連動させるような教育がなされたりして、それで個人の価値観が形成されたりするわけです。いいことをすると気持ちがいいなぁ、というのはこの価値観の方ですね。 で、「殺人は悪」というのは、皆が気が向いた時に殺人なんてやってたら集団が成り立たないからです。だから「法律」で定められた「罪」による「罰」で抑止して縛っているわけです。戦争で兵士が相手を殺しても罪にならないのは、それが国家という集団の目的に適っているからです。侵略戦争かましてくる相手に反撃せず殴られるままにしてたらどうなるか、ということですね。 以上を踏まえて最初の質問に戻りましょう。最初の状況は国家という大集団から外れていて、生き延びるという本能に基づく利己を優先するか、それとも形成されてきた価値観に従って人を殺して食うなんて御免だと別の手段で足掻くか、という個人の問題になります。なので善悪で話す問題じゃないんですが、それでも4人が共通の目的を持って集団を形成するなら、その目的に従う行動が善、逆らう行動が悪です。 そして最後の質問ですが、私にとっての善は上記の定義通り集団の都合に沿うことです。で、善行は生きるための手段でもありますけど、普段はそこまで気にしてないです。今の日本、とても平和なのでそこまで気にしなくても生きていけますよね。国家という集団自体がそもそもより良い生活のためにあるもので、極限状況でもなければ利己と利他は基本的に対立しません。同じ集団内の誰かのためにすることは自分のためになります。で、まあ私の価値観でも善と快、悪と不快がそれなりに結びついてるんで、さしたる労力もかからず善行が出来るならその程度でやります。とまあこんな回答でよろしいでしょうか。
フィルヒョウ⇒サンダーソード | |
2018/12/18 02:49[web全体で公開] |
> 日記:善悪とか人それぞれとか議論とかのお話 「集団の都合」と「集団が生きられるかどうか」が必ずしも合致するとは思えません。 しばしば引用される4人の漂流した船乗りが3人だけ生き残るために衰弱した1人を殺して食べて生き残る話がありますが、仮に4人で共倒れで死ぬことを決意して死んだときにはそれは悪なのでしょうか? サンダーソードさんにとっての善は集団によって決められたことですか?それとも生きるための選択ですか?
サンダーソード | |
2018/12/18 00:53[web全体で公開] |
😶 善悪とか人それぞれとか議論とかのお話 なんかどうも善悪の話が流行になってたようなので、きっかけとなってしまった身として、ちょっと一席ぶってみるとします。 まず私のあの日記、「殺人は何が悪いんですか?」って聞かれたので「これこれこうだから悪いんですよ」と説明したところから始まりました。相手のの問い全部に答えつつ説明を繰り返して、500字制限に引っかかるので日記に切り替えて、という形でした。まあ相手が分かりたくない人だったようなので万言尽くしても無意味でしたが。当人は最後に救いがどうとか言ってましたが、その人の頭の中で私の説明がどう変換されたのかは分かりませんでした。 で、結論を改めて書きますと、「殺人は何が悪いのか」は、「集団の都合に反するから悪い」というわけです。これを善悪の概念まで広げるなら、「善悪とは何か?」「集団が生き延びるための仕組みである」ということになります。個人で善悪は存在しません。その理由は前の日記やらコメントやらを見てください。「自分が生きるためにすること」は善悪以前の生物としての最大目的ですね。原生生物のレベルから選択圧に晒され続けて、必然的に「生存しようとする生命」だけが残ります。そうして生き延びてきた末裔が我々なので、生物としての第一義は「生き延びる」ことにあります。善悪もこれの後に付随して生まれたものの一つなのです。そして「善悪とは集団が生き延びるための仕組みである」というのは、「これはキャベツである」と同程度の、ただの定義に過ぎないわけです。 それならなんだってこれほどまでに善悪の概念でわけのわからないことになっているのかというと、偏に分かりにくいからです。キャベツなら近所のスーパーで買ってきてこれがキャベツだって言えばいいですが、善悪はAmazonでもお取り寄せが効きません。「どうやって善悪が生まれたか」からいちいち考えなきゃならんわけです。そしてどうして「これはキャベツである」に過ぎないようなことを散々議論したり人それぞれであるべきだなんて結論に至ったりするのかと言うと、「善悪に似てる気がする概念とごっちゃにして使ってる」とか、「善悪の定義を知らない人がいっぱいいて、みんながなんとなくで使っているから」とかじゃないかと思います。欲求とか正義とか法律とか快不快とか好き嫌いとかをごっちゃにして、善悪を話してるつもりで別のことを話してたら当たり前ですが統一した結論には至れません。レタスを買ってきて「これはキャベツである」と教えられたら普通はお母さんに止められたりしますけど、それがなければそのまま刷り込まれてしまうわけです。そして白菜や芽キャベツをキャベツと思い込んでる人とキャベツに話し合ったら余計訳の分からんことになってしまいます。しかしそれでキャベツは人それぞれなんて結論を出したとしても、現実世界ではキャベツはキャベツです。トランスフォームしてレタスになったりはしません。 人それぞれの何が問題かというと、「人それぞれというのは人それぞれでいい部分にしか使えない」ことにあります。価値観がどうとかいうのも同様です。ですが、耳障りがいい言葉であるために自分の都合のいいように使う人が絶えないわけです。例えば、自分が論破されそうになった時に持ち出したりですね。「レタスをキャベツと呼ぶのは人それぞれだ」「レタスをキャベツと呼ぶのが私の価値観だ」と書けば、この物言いが詭弁だということは一目瞭然ではないでしょうか。決して錦の御旗ではないのです。「私はキャベツが嫌いだ」「私はキャベツが好きだ」「私は生のキャベツは好きだけど火を通すのは嫌だ」と、こちらに使うべきなのが「それは人それぞれだ」なわけですね。「殺人は悪」というのはその集団にとってのただの事実で、「殺人があるとか考えるのも嫌だ」「殺人は毎日でもやりたいくらい楽しい」「殺人なんて対岸の火事、特になんとも思わない」こっちが価値観です。 さて、皆がレタスをキャベツと思い込むと実用上どんな問題があるかですが、「キャベツが何なのか誰にもわからなくなる」ことにあります。スーパーに行ってレタスとか白菜とか芽キャベツとかがキャベツの棚に置かれてたら困りますね。キャベツならこの程度ですみますが、善悪を別のものと結びつけて騙されて、その上で良心に付け込んだりされるとまあ酷いことになります。善悪やら正義やらの「なんだかよくわからないけど尊ぶべきと思われる素敵っぽいもの」全般にこれは言えますね。「善悪がどんなものか」というのが分かってれば、善行のつもりで悪行をしたり、自分個人の好き嫌いやその時の気分を善悪と混同したりしなくて済みます。その上で、「悪人を減らして善人を増やすにはどうすればいいか」なんてことを議論することもできるようになります。各人が善悪を履き違えてると、そういう議論は100年経っても結論が出せません。 そして議論が発生するときにはそこに必ず目的があります。明示されてなくてもあります。よくあるのは事実の追求、確定とかですね。「これはこうじゃないか?」「いやそう考えるとここがこうなって矛盾する。こうじゃないか?」「なるほど、そう考えれば破綻しないな」と、目的のために知識や知恵や情報を提示しあって、間違いを削ぎ落とし勘違いを叩き潰し見落としを複数の視点から埋め、より正しい答えを得るための集団行動が議論です。そしてここに価値観が介在する余地はありません。「キャベツとは何か?」という定義は議論できても、「キャベツは好きか?」なんて議論は出来ません。「これはキャベツだ」「いやそれはレタスだ。スーパー行って買ってこい」「見てきた。レタスだった。キャベツはこっちだったのか」は成立します。そして議論の結果、誤認が一つ消えました。ですが「私はキャベツが嫌いだ」「私はキャベツが好きだ」「私は生のキャベツは好きだけど火を通すのは嫌だ」は議論が成立しません。キャベツ嫌いをキャベツ好きに変えようとする対話は議論ではなく説得です。そして人それぞれで終わる会話はただの雑談です。 では「なんだってこんなに結論の統一されないような議論がそこらじゅうにあるのか?」ってことですが、議論で答えが分かれるのは情報が足りてないか議論が足りてないか、あるいはそもそも議論じゃないからです。「キャベツとは何か?」と議論したとしても、各人がレタスと白菜と芽キャベツしか知らなければ知らなければどうしようもないですし、キャベツを知ってる人がいてもスーパーで見てこいとか植物辞典引けとか、そういう理解させるための証拠が提示できなければ平行線です。とは言え、これらは「キャベツを知ってて」「証拠を提示できる」人が一人でも議論に加われば説明するだけで解決します。問題はそもそも議論じゃない場合です。つまり、事実の追求を目的と標榜しつつも、別の目的を持って議論に参加してる嘘つきがいる場合です。この場合議論が討論に変貌します。「レタスがキャベツではない」とわかった上で「レタスをキャベツと主張する」と討論が起こります。この場合、レタスをキャベツと主張する人の目的は、「引っ込みがつかなくなったので押し通したい」「自分が間違ったことを主張していたと認めたくない」「こいつ嫌いだから言い負かされたくない」「キャベツ教に加入していてこの世全ての葉物はキャベツだと言い張りたい」とかなんかそんなのです。こうなると目的が違うので、キャベツがキャベツだと主張する人と喧嘩になるわけです。なおこういう思考プロセスになると間違ったことを正しく見えるように偽装するために頭を回すようになるので、何をどうしても論破されます。そして議論と討論を混同すると、相手の目的が違うってことに気付けないので泥沼になります。「レタスはキャベツではない」というのが「正しく」、「レタスはキャベツである」というのは「間違っている」。その結果を受けて「自分の誤認を改める」のと、「自分が間違っていたことを認めない」のと、どちらを恥に思うかが「人それぞれ」の「価値観の違い」で、「議論を終わらせる」か「討論を始める」かはその人の価値観が現れる「行動」です。そして後者は議論ができない人です。結論を認めたがらないので議論が終わりません。ちなみに私の価値観では、議論をして正しい意見を提示されたのに言い負かされたとか思うことは恥です。 まとめると、「善悪とは何か?」「集団が生き延びるための仕組みである」。「議論とは何か?」「皆で間違いを排して正解を模索する協力作業」。「人それぞれ」なのは嗜好や好悪や優先順位や価値基準などの「個人で完結するもの」であって、言葉の定義や集団の掲げる共通目的などの他者と共有するものには使えません。自分が議論できる人かどうかを手っ取り早く知りたいなら、この長々書いてある文章をどう思ったかで判別してください。「文章に正当性はあるか?」と疑問に思って疑問や反論をぶつけるか、「間違ってほしい」と思って難癖を付けるかで分かります。前者は議題に沿った話をして、後者は無関係な話を持ち出します。以上、善悪とか人それぞれとか議論とかのお話でした。長かった。
速水⇒サンダーソード | |
2018/12/14 08:44[web全体で公開] |
> 日記:500字制限以下略。 日記から失礼しまーす。 なんか議題としては面白いけど、炎上まったなしの議論してるようなのでお邪魔します。 なんか、大学でやったディベート思い出しますw「性善説」と「性悪説」ときて、「善と悪とは生まれ持ったものでなく、後天的に学習によって獲得するもの」とかやった気がします。w かなり意見を論理的に書いてもらっているので、私的には納得出来ますし、面白いなーと思うのですが、共有の場で議論の途中の意見を展開すると、「なにが起こったの!?」って周りがびっくりしちゃうので、お相手のかたが提案してるように、スレッドたてるなりした方がいいかと思いますよー。
木の葉⇒サンダーソード | |
2018/12/14 07:27[web全体で公開] |
> 日記:500字制限以下略。 サンダーソードさん。 これは何に対する反証でしょうか? 恐らくですが、サンダーソードさんが反証しようとしているのは、「不特定多数に対する日記」では無いですか? 日記帳は物事をディスカッションする場ではありませんし、自分自身もそうする気はありません。 どうしても収まらないのであれば、掲示板にスレッドでも作成致しましょうか? 少なくとも自分には、日記帳というスペースを私物化する事に対しては「善」だとも「良い事」だとも思えません。 もしもサンダーソードさんがこの日記という名のディスカッションを「正しい事」「正義:そういう善性の感情で行ったのであれば、改めて今一度よく考えて頂ければと思います。 「殺人は悪だけど、そんな事知るかあいつを殺る」の言葉通りに、悪い事と思って悪い事をする人間なのでしたら、こちらとしては何も言う事はありませんが。
サンダーソード | |
2018/12/14 03:08[web全体で公開] |
😶 500字制限以下略。 善悪と法律は別問題です。善悪と社会問題も別問題です。善悪と正義も多分別問題です。別の集団に属する人間をより集めて善悪の定義を統一しようとするのは無意味です。死刑の善悪を決めかねているとかいうのは善悪の問題に別の都合を持ち込んでいるからでしょう多分。その方が金が儲かる、その方が気分がいい、私が嫌いだから、私の身内が殺されたから、云々。集団の都合である善悪と所属する個人の都合は別であるのに、その原因を「善悪が不定だから」と断定するのは何故ですかね? 実社会上で正義やら善悪がいろんな問題に絡めて騙られるのはそれで騙される人が多いからでしょう。騙す人にとって便利に使えるからです。なのにそういった詐欺を含めた全ての「善悪」や「正義」を対等に扱うのは、味噌もクソも一緒にしているだけで、無意味通り越して有害です。 で、単純な「善悪の問題」を、人間の把握できる世界がどうとか「よく分からない難しい話」にすり替えて、「どっちもどっち」とするのは詭弁です。自分の所属する集団の善悪を評価するのは他の集団で、評価する集団に都合が悪ければ悪で、都合が良ければ善です。そもそも私は一度も自分の所属するコミュニティが善に属するなんて言ってません。 『自分達の立場は、自分の所属する社会は、本当に善の立ち位置なのでしょうか。 何の疑問も持たず、社会が正しいものとするのは、宗教と何が違うのでしょうか。』 そして善悪と正誤をまた混同させてます。私が何度もあなたは混同させていますと指摘しているのに、指摘されたことに対しては一切触れずに感情論に持ち込むのは故意にやっているとしか思えません。 また、自分の意志で行動を決定するというのは正しいですし、責任転嫁のくだりも妥当ですけど、「善悪」と「判断基準」は別です。善悪は善悪でしかありません。ただの集団の都合により振り分けられた区分です。「殺人は悪だけど、そんな事知るかあいつを殺る」は成立するんです。なんか善悪を絶対視していませんか? だとしたら、それこそ木の葉さんの言う宗教的な考え方だと言えると思うんですが。 『だからこそ』が順接になってないんです。何度も、何度も何度も何度も繰り返している通り「殺人はその所属する集団にとって都合が悪い」から「悪い」んです。それ以上でもそれ以下でもありません。 木の葉さんが大事だというイメージの定義がまた分かりませんけど、迷走し続けてる限り百年経っても結論は出ません。別のものをごっちゃにして議論しても、その時点でボタン掛け違ってるんで何をどうしても無理が出ます。統一された結論を出したくないってことにこだわるならそれでいいんでしょうけど。 これで分からないんならもう分かりたくないものと見做します。
サンダーソード | |
2018/12/13 23:37[web全体で公開] |
😶 コメントじゃ500字制限があるので日記に書くことにした返答 何度も繰り返していますが『殺人は良い事でも悪い事でもない』が返答ではないです。これも何度も繰り返していますが「殺人は悪いこと」です。理由は先に述べた通り、「善悪」は「集団の都合」です。「個人の善悪」という言葉が既に矛盾しています。「感情論を根っこにした善悪」は「善悪を騙った独善、ないしは詭弁、あるいは別の何か」です。故に「社会的に悪いと言われる理由」と「個人の回答」が一致することに偶発的な要素はありません。善悪の定義が集団の都合に準拠するのですから。 つまり、「殺人が善行だと認識すること」は「大体の集団に置いては間違ったこと」です。まあ、殺人を善行だと認識していても「実際に殺人という行動を起こさなければさして問題のないこと」ではありますが、それは「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」と同レベルの認識です。 「人それぞれ」というのは「殺人を自分がすることをどう感じるかがその人の自由」ということであり、「殺人は楽しい」「殺人は嫌だ」「人を殺しても特になんとも思わない」これは自由だということです。殺人を楽しいと感じてても行動に起こさなければ問題は起きませんよね。 『社会の善悪とサンダーソードさんの善悪が一致するのであれば、その前提ではサンダーソードさんにとっても「殺人は良い事だ」となる。サンダーソードさんは、それが悪い事だとは全く思わない。そういう事ですよね。』という質問ですが、木の葉さんの言う社会を私の言う集団だと仮定しますが、「はいそうです」と。見知らぬシリアルキラーやら何やらが処刑台に送られたと聞いても多分特に気にしないんじゃないですかね。それと木の葉さん「社会正義」って挙げてますけど、正義に関しては私はよく分かってないのでなんとも言えません。 で、「社会的に認められた殺人の問い掛け」らしいんで、多分「私が殺人をすることを私がどう考えてるか」を聞きたがってると判断してこっちも答えておきますけど、「殺人は悪いこと」であり、「例外的に善行となる殺人は善いこと」であり、「私が殺人をすることは基本的に不快で避けたいこと」です。前者二つは正誤の問題で後者は私の感情の問題です。実際これが問い掛けの真意かどうかは分かりませんが。 以上を踏まえて、私は切り分けて考えているつもりですと返答します。 次に木の葉さんが「善悪と好き嫌いもしくは快不快を混同している」と述べた理由ですが、 『では、実際問題としてサンダーソードさんは、社会的に許されるのならば、眉根1つ動かさず無実の人を処罰出来ますか?罪悪感を抱く事はありませんか? それとも楽しいと思うでしょうか。 或いは悲しいと思うでしょうか。 「殺人は悪い事ですか?」』 この私に対する問い掛けです。 「社会的に許される殺人の善悪」と「私が処刑執行人となった時の感情」とを混同して聞いた上で、同じコンテクスト上で「殺人の善悪」を再度聞いてきています。これを意図的にやってるんだったら木の葉さんが私を混同させようとしてるだけという話になりますが、そうでないなら木の葉さん自身が切り分けられていないからこういう問い方をしたのだろうと推測したためです。「放火準備中の放火魔を見つけた時に後頭部をぶん殴れるか否か」「人を殴った時に感じる感情」「人を殴るのは悪いことか」これ全部別のことです。そして異なるものを同一のものと間違えることを混同するといいます。 以上により木の葉さんは混同していると返答しましたが、先程のコメントでもこっちに関しては触れられていませんでしたね。なので木の葉さんがどう考えてるかは私の方からは分かりません。
木の葉⇒サンダーソード | |
2018/12/13 21:34[web全体で公開] |
繰り返しますが、サンダーソードさんにとって「殺人は良い事でも悪い事でもない」が返答では無いのですか? 混同しているのは、むしろサンダーソードさんの「個人の善悪」と「社会の善悪」です。 そもそもとして、「人それぞれ」を許容するのであれば、殺人が良い事だと認識する事になんら問題はありませんよね。 サンダーソードさんの「個人の回答は一致します」はその前提では偶発的な事に過ぎず、何の理由も説明されていない事になるのでは無いですか? 社会的に認められた殺人の問い掛けの、真意はそこではありません。 それをする理由? それが「社会正義」ならば、という話です。 社会の善悪とサンダーソードさんの善悪が一致するのであれば、その前提ではサンダーソードさんにとっても「殺人は良い事だ」となる。 サンダーソードさんは、それが悪い事だとは全く思わない。 そういう事ですよね。 結局の所、切り分けられていないのはサンダーソードさん自身だと思います。 そもそも、社会通念上の善悪を語るのであれば、感情論を根っ子にする善悪なんて沢山あります。 今一度、考えてみてはどうでしょう。
サンダーソード⇒木の葉 | |
2018/12/13 20:51[web全体で公開] |
で、問いかけですが「社会的に許されるのならば眉根1つ動かさず無実の人を処罰出来ますか? 罪悪感を抱く事はありませんか? それとも楽しいと思うでしょうか。或いは悲しいと思うでしょうか」という問いは後者に属します。処刑できるか、という意味では可能でしょう。眉根一つ動かさずというのも努力すればできるかもしれません。で、それをする理由がありません。嫌ですよそんなの。なんで悪くない人を殺さなきゃならないんですか? そうするに足る理由があるのでしょうか? そして、「殺人は悪いことですか?」という問いは最初に述べた通り悪いことです。これは上の問いかけとは別の問いです。混同させてしまうと訳の分からんことになるだけです。恐らく木の葉さんは善悪と好き嫌いもしくは快不快を混同させてるんじゃないでしょうか。正誤の問題と感情、つまり気分の問題は全く別です。「殺人」は「悪いこと」で、「殺人を自分がすること」をどう感じるかが「人それぞれ」なのです。
サンダーソード⇒木の葉 | |
2018/12/13 20:48[web全体で公開] |
いえ、ですから先ほど説明したとおりに善悪は群れの都合、つまり社会的なものであるからして、何故社会的に悪いと言われているかと個人の回答は一致しますよ。殺人は悪いことです。無人島で独りで暮らしているのに善も悪もないでしょう。他人がいるから善悪があるんです。悪いことは先程説明した理由から悪いのであって、「人それぞれ」とかではないです。 で、親しい人を殺されて復讐に走ったりするのは「そんな社会的な都合なんぞ知るか」と個人の欲求を上位に置いた行動を取ってるからです。個人の価値観による「人それぞれ」はこっちです。主観による優先順位を付けて、復習することで生じる諸々の不都合よりも気分がスッキリする方を選んでいるわけです。
木の葉⇒サンダーソード | |
2018/12/13 08:30[web全体で公開] |
成る程。良いと思います。 ですがそれは、「何故社会的に悪と言われているか」の理由であって、サンダーソードさんの答えでは無い様に思えます。 強いて言えば、サンダーソードさんの回答は「どちらでも無い」となるのでしょうか。 良い事では無いけれど、悪い事でも無い。 では、実際問題としてサンダーソードさんは、社会的に許されるのならば、眉根1つ動かさず無実の人を処罰出来ますか?罪悪感を抱く事はありませんか? それとも楽しいと思うでしょうか。 或いは悲しいと思うでしょうか。 「殺人は悪い事ですか?」 もし良ければ、考えてみるのも良いと思います。
サンダーソード⇒木の葉 | |
2018/12/13 01:47[web全体で公開] |
> 日記:これからもTRPGプレイする人へ(真の正義とは…?) 殺人が悪いというのは、その人が属する集団にとって都合が悪いから悪いことなのです。 基本的に人間は死にたくないので、好き勝手に人殺しを始めたらその集団が成り立たなくなります。だから殺人は悪いことだと決めたのです。 だから戦争で敵を殺しても悪いこととは言われないんです。相手はその集団の人間ではないから。集団にとって都合のいい人殺しだから。 だから死刑制度はあるんです。集団にとって殺しておくほうが都合がいい人間がいるから。 盗むな、侵すな、この辺も同じことですね。 こんなもんでよろしいでしょうか。
サンダーソード | |
2018/12/06 02:11[web全体で公開] |
😶 シナリオ完走 しました。どうにか。 多大なる迷惑をおかけしたPL様方に謝罪するとともに感謝を。ごめんなさいありがとうございました。