カテキンさんの日記 「年末・年始の挨拶」

カテキンさんの日記を全て見る

みんなの新着日記を見る

カテキン
カテキン日記
2021/12/29 19:55[web全体で公開]
😊 年末・年始の挨拶
【trpg人生の一生について】
 中国の儒教系trpgプレイヤーとして名高い孔子(???-BC479)は、『論語』によると、こう人生を振り返ったそうである。
子曰(しいわ)く、吾十有五 (われじゅうゆうご)にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみしたが)う。
七十にして心の欲する所に従いて規(のり)をこえず」(為政編より)。
 解釈的に特に難しい箇所はないので、ひねったりせず、そのまま素直に読めばいい。すなわち孔子は次のように我々に語りかけている。
15才にして「学に志す」、すなわちtrpgを学び始め、
30才で、「立つ」、すなわちGMとして卓を立てる。
40才で、「惑わず」、すなわちSNS等で度々流れるtrpg学級会の極端な思想に振り回されることがなくなり、
50才にして「天命を知る」、すなわちセッションを通じての道徳教育、コミュニケーションの場の創出といった社会奉仕に目覚める。
60才になると、「耳が順う」、すなわち探索系技能を振らずともシナリオの背景、真相、フレーバーを瞬時に感じ取れるようになる。
70才で、「規(規律)をこえず」、すなわち一般的にルーニーと呼ばれかねないプレイをしても、もはや卓の調和を少しも乱すことはなく、皆が満足できるセッションを作ることができるようになる。
 むろん古代中国と現代日本では、trpg環境は大きく異なるが、この孔子の証言は大変含蓄深く、とりわけ自らのGMとしての独り立ちを果たし、自分の目と耳でセッションの全体像や構成要素を把握することをまず優先し、その後に、「惑わず」「天命を知る」「耳順う」「規をこえず」といった境地を次々と実現していった点など、その慎重な人生設計は、われわれ現代日本人にとってもじっくり味読する価値があろう。
 さらに、いわゆる「trpg人生の成長段階説」と現在呼ばれている議論が、素朴ながらも紀元前5世紀の当時、すでに定式化されており、この点で孔子は「trpg族の生態」研究の先駆者と言っても少しも過言ではない。
 筆者はこの成長段階説に当てはめると「三十にして立ち」がもっとも近い。そのため、最近はGMに比重をおいてコツコツと活動をしている。一歩ずつ、自分を見つめながら精進していこうと思う。

【初心者とは何ぞや?】
野良でのセッション募集を再び行うようになり、初心者と卓を囲む機会が増えた。
初心者、すなわち「初心の者」、なんという美しい日本語か。高慢にならず、いつまでも初心者でありたいものだ(初心者とは、自称により定義されるものではない。ましてや技術によっても)。下手でも恥ずかしがる必要はない。初めのうちは下手で当たり前。卑屈になる必要もないし、ハッタリをいう必要もない。上手い人を見かけたら、教えてもらえばよい。初心を守る者の心には、なにかしら人の心を打つものがある。
 セッション経験より大事なものは、仲間と共に、セッションを楽しみ、またある時は議論を楽しむことだ。楽しむことである。ルールの理解やRPの得手不得手など、時間がたてばどうにでもなる。これぞ悟りの神髄であるかもしれない。RPの上手さや世界観の表現力というtrpgプレイヤーならば永遠に続く輪廻の苦悩からの解脱は、「楽しみ」の中にしか見いだせぬ。技術は内なる自己との対話であるが、楽しみは人との共感である。技術は個人のもの、楽しみは共有のものだ。
 心の温まるセッション、潜在的自殺志願者にすら「この世も捨てたもんじゃないな」と感じさせるセッションには、決して技巧ではない「何か」があるのではないか? 『古今集』の紀貫之にとって、歌とは、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思わせるもの」であった……。



【本題】
今年同卓していただいた皆様には大変お世話になりました。
おかげ様で今年もとても楽しい一年を過ごさせていただくことができました。
夏頃から僕なりのペースでtrpgを「楽しむ」ために屋台trpgスタイルに切り替え、日程調整で遊ぶことが難しくなってしまいましたが、たまに卓を立てているのを見かけた際は、ふらっと暖簾をクグって一緒に遊んでいただけましたら幸いです。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。
いいね! いいね!24

レスポンス

レスポンスはありません。

コメントを書く

コメント欄:(最大1000文字)

※投稿するにはログインが必要です。