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2020/09/12 16:52
😶 「紫の雲」読了(かなりネタ割ってるので畳みます) (▼ ネタバレを含むコメントを読む。 ▼) 図書館から借りてきた、M・P・シール「紫の雲」を読んだ。 作者のシールは、19世紀末から20世紀初頭に活躍した作家で、史上初の「安楽椅子探偵」として名高いプリンス・ザレスキーというシリーズ探偵を作ったことで知られているが、そのザレスキーものとして認知されている作品はわずか短編4作しかなく、本領は怪奇小説であり、SF的な幻想小説である。とりわけ有名なのがその文章であり、イギリスの小説を訳したら名翻訳者中の名翻訳者である中村能三先生をして「吐き気をおぼえた」といわせるまでに晦渋でペダントリックな代物であり、日本では唯一の短編集である創元の「プリンス・ザレスキーの事件簿」は、巻末におびただしい「訳注」が何ページもくっついているというすさまじいものなのであった。 というわけで、そんなシールの作品の中でもとびきりの「奇書」として昔から名が高かったこの本、まさか日本語に訳されていてこうして読める日が来るなど想像の埒外であったが、ネットで調べたら2018年に、これまた名翻訳者である南條竹則先生による訳が出ていると知り、南條先生なら、いくらあのシールの文章でも読みやすく仕上がっているはずだ、と図書館に頼んで取り寄せてもらった。 で、読んだわけだが、これがまた想像の埒外の代物で、正直まだ頭がクラクラしている。いったい自分が読んだのがなんなのかもよくわかっていない。 あらすじであるが、主人公は医者。この作品が出版された1901年の小説界の常識からすると、医者はまた同時に、科学的な知識に関するジェネラリストでもある、と覚えていて欲しい。これが中盤からきいてくるのだ。 さて、この医者が、北極点に初到達したものには一億ドル以上の遺産を贈与する、という大富豪の宣言により編成された北極探検隊のメンバーに加わるところから話は始まる。本人は乗り気でなかったのだが、この医者の婚約者が、メンバーの一人を毒殺(!)して、補欠要員だったこの医者も船に乗り込むことになったのであった。 北極点への旅は困難を極め、しかも超自然的な力か、単なる悪運かはわからないが、探検隊の他のメンバーが次から次へと変死(!)して、主人公は北極へ上陸し、北極点を目指す。他のメンバーが全員死んだため、その医者がたった一人たどり着いた北極点は、異様な古代遺跡だった。そこが「人間」を拒む、何らかの力によって作られたものであることを確信した医者は、そこから逃げ出すのであった。ここまでが53ページ。 帰途、医者は、地平線の果てが、異様な紫色の雲で覆われているのを目撃する。大気も、桃の香りを思わせるうっすらとした匂いがついていた。ようやくのことに船へ戻ると、そこでは待機要員である他のクルー全員が死んでいた。主人公は、船が機械化されていたことを幸い、ひとりで船を操って文明世界に帰ろうとするのだが、すれ違うどの船も、乗っていた人間は全員死んでおり、ノルウェーの港に入港すると、そこでは町中の全員が死んでいた。あの雲の桃のような香りは、青酸ガスであり、その雲が極点近くを除く地球一帯を覆ったことに医者は気がつく。ふたたび船を動かしてイギリスに戻ると、そこでも全員死んでおり、ロンドンに戻った医者は、タイムズの編集室で得た情報から、世界にいま生き残っているのは自分一人だけだ、ということを知らされるのであった。現象の発生日時を考えると、どうやら、自分が北極点であの遺跡を人間でありながら「見て」しまったことで、なんらかの超自然的システムにより、地下からこの青酸の雲が突如吹き上がったらしい……。 で、医者の、ガスの影響か、死体の腐敗が極度に緩慢に進んでいく、死に絶えたヨーロッパ放浪の話になるのだが、53ページから223ページまで、生きている人間はだれ一人出てこない。この小説が300ページちょいであることを考えると、ものすごい構成である。出てくるものはもう、死体、死体、死体。すさまじいことに、そのうち精神の一部でもブチ切れてしまったのか、主人公の医者は、放浪の中で目にした、死体でいっぱいの大都市を、片端から爆破し焼き払ってまわるのである。 この時点でクラクラくるが、それから十七年近く、医者は自分一人で、自分好みの宮殿を作ったり(どうやって、とは聞くな。この時代、医者と科学者はジェネラリストなのだ。科学の力と強靭な意志力があればなんだってできるのである)、街や村を爆破したりしながら過ごすわけだが、ある日コンスタンチノープルへ赴く。その地で、医者は、あのガスの中、地下室で生まれ、奇跡的に生き残ったひとりの少女と出会うのであった。 それで、「ああ、アダムとイブものになるのか」と思ったらそうではないのである。運命は実に過酷であった。この主人公の医者は、ちょっと古いいいかたであるが、とんでもない「ツンデレおじさん」だったのである。この途方もなくツンデレな男は、この美少女と結ばれることができるのか! まあ読んで、自分としては実に面白い終末幻想小説であった。読みどころはなんといっても、死体で埋め尽くされたヨーロッパを主人公が放浪してまわるところだろう。ラヴクラフトは、当時このシーンを絶賛している。死体しか出てこないこのヨーロッパが、シールの文体もあって、非常に静謐なユートピアのように思えてくるのだ。訳者の南條先生は「辟易した」らしいが、ここの延々と続く死に絶えた世界の描写はすばらしい。全ページ数の半分がこの死体だらけの世界。執筆された年代は1890年代終わりあたりだろうことを考えると、いやあ、世紀末だなあ。 それがいきなりツンデレ小説になってしまうのだから、もうなんというか。「怪作」としかいいようがない。M・P・シール、底の知れない作家である。 作中の死体しかないヨーロッパという世界のシュールさは、「クトゥルフ神話」のようなコズミック・ホラーが好きならチャレンジしてもいいかもしれない。「クトゥルフ神話RPG」や、SFもののゲームなどにもイメージは合うだろう。ネクロニカとかも合わせると面白いかもしれぬ。とにかく訳文は読みやすい。ただし、そうとうに「読む人を選ぶ」作品でもある。面白がる人間には間違いなく傑作であるが、普通の常識的な作品が好きなら、数ページで逃げてもおかしくない。 この小説だけでおなかいっぱいだ。きょうは早く寝よう……。
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2020/09/12 16:52
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