愛善院さんの日記 「書くべきか喋るべきか」

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愛善院
愛善院日記
2020/06/26 07:49[web全体で公開]
😟 書くべきか喋るべきか
音声言語は表記言語に優先する。
という、言語変化の大原則のひとつがある。

日本語でいえば「口語」と「文語」の違いなのだが、
単に「文語」といってしまうと
「古文」のことだけを指す場合があるので
明確に区別するため、ここでは
「音声言語」「表記言語」と称す。


音声言語が表記言語に優先するのは
考えてみたら当たり前の話で、

知能を持ちはじめた猿が何かを他の猿に伝えるのには
最初は声を出したであろうという類推だ。

……最初から壁画を作ったり、結び目を数えたり
という段階からはじまった、とは考えづらいのは

声は、複数に、その場の、その瞬間に
何かを伝えるのに効率的であったからである。
この場合の「何か」は、およそ「本能」に直結する。
つまり、群れに危険を知らせる生存本能が
声帯を発達させた。

もし群れに危険を知らせるのに、
壁画を書き始める猿がいたとしたら、
その猿はおそらく、天才ではあったのだろうが、
その場の、その瞬間に居合わせた危険に
取って食われて滅亡していることであろう。

表記言語は、瞬発力がない。
表記言語は、ほとんどの場合、
絵のようなものからはじまり
絵の略号のような状態を経て
音を模写するのに最も適切な記号文字へ
と、進化していくのが普通なのだが、
ともかく、最初は絵だ。

描く(書く)のに、時間がかかる。
つまり、その場にいる伝えたい相手が
飽きてどっかいってしまう。

その瞬間に伝えねばならないとき
相手がそれを見ていなければならない、
というのは、

視覚という危険察知のための機能を
一瞬でもそこに費やさねばならない、
という浪費になりうる。

一方で、もちろん、表記言語にも利点がある。
一度、その場に残せば、
遠い未来であろうとも、
意味が分かる誰かが現れるかもしれないという点だ。

その場にその(表現された)瞬間にいる必要がない。
書き終わったころ見にいってもいいし、
伝えようとした人が死んだあとでもいい。

同時に複数人が見ることが不可能でも
(現代では複数人はかなり容易だが)
時間的な猶予があるので、
前の人が気が済むまで見たあとに見てもよい。

この、時間的な猶予が最大の利点であり、
むしろ猶予がない状態でそんなことはできない、
という、最大の欠点でもある。

この、2つの言語運用によって、
人間の脳はかなり無茶苦茶になってしまった。

一気に現代までとばしてみると
われわれの「しゃべりことば」(つまり音声言語)と
われわれの「書き言葉」(つまり表記言語)とは
怪奇な乖離がある。

日本語は特に、そういわれる。

ある一定期間、不変で存続しつづける「表記言語」は
その瞬間、その場でしか成立しえない「表音言語」に
簡単に置き去りにされてしまうのである。

おそらく、いまだに「国語」の授業では
かつての名作を読むということがあるだろうし
文章を構成するためのルールとしての「文法」も
存在するはずだ。

が。

それらで扱うのは
普段しゃべっていることばとは、微妙に違う。
ズレている。

……いま「ズレている」
と、表記言語化したが、
たとえば無意識なしゃべりならば、これは
「ズレてる」
「ズレとる」
とやっている可能性がある。


ロールプレイングに慣れるのには
テキセのほうが有効である。
これは時間的猶予や存続性から
おおよそ外れではない。

が、向き不向きはある。

しゃべりことば全開で表記すると
そこに無茶ができる。

ネイティブの津軽弁あたりを(音声記号をつかわずに)
日本語で表記しようとすると
黒魔術の呪文になることがある。

「かっふぇ かした えん かふぇら」

これはこれでキャラ立ちはしそうだが
ものごとを確かに伝えねばならないとき
シナリオを明確に進行させねばならないとき
などなどで無意味な苦労がともなう。

考えてみれば、キャラクターによっても
テキスト向き、ボイス向き、
という違いは結構あるもののようだ。
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