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🤔 言語感覚の生理的嫌悪およびその伸長 ある種の強迫障害とか強迫症のレベルで 言葉の扱いかたを鋭く感じとる そういう語感の持ち主がいる。 というか、私もわりとそうで というのは、 日記の記事を見ても、 不思議なほど行替えをしていることから わかっていただけるのではなかろうか。 少なくとも日本語話者の場合、 この感覚がある人とない人との差は かなり明確だったりする。 世の中のSNSなどを見回しても ほんの些細な(本筋に大きく関わるものではない) 言い間違いや文法違い 語の使用のあやまりなどに対して 「ひとこと言わねば気がすまない」人は 散見されることだろう。 面倒くさいと思うなかれ。 我らにとっての「それ」は 曇りガラスをシザーハンズでひっかいたり 頭頂部を紙ヤスリでこすられたり するくらいの苦痛を伴っていることがあるのだから。 この語感をもつと、ある種の言語事象に対して 極端に鋭利な刺激、 あるいはしばしば超ドの圧迫感を得る。 わりと強度なストレスになる人もいる。 これによってコミュ障となる場合も多少ある。 「言語」を「第六感」として処理すると 目や耳や鼻と同じように その言葉の扱いかたに 「生命の危機」を感じていることすらある。 が、 実際に「言葉」によって 物理的に死ぬことはないので 他の人からみれば 「なんだい、そんなことか」 と笑い飛ばされたりする。 花粉症になったことがないやつに 花粉症の辛さはわかるまい。 言葉に対する過敏症であっても それは同じことだと思われる。 さて、 物事は常に逆の価値観、 逆のベクトルから検証すると面白い。 この語感、 言葉に対する異常なほどの鋭さは、 どのように利用するべきであろうか? せっかく持ってしまった特性でもあるので それを生かす方向で考えてみると ひとつには その感覚を伸ばして 「その言葉づかいだとなぜ感動(納得)するのか」 を分析したり 自分の表現にとりいれたりすることができる ということであろうか。 自分が好ましいとするものが 何であるのか どういうものであるのか それはなぜなのか どうすればできるか などなど、 直観で見抜いていくことができたりする。 さらに応用すると 相手の感情や感覚の度合いすら見えたりする。 一方で 苦手とする言葉、嫌いな言葉の扱いに対して ときどき挑んでみるのもよい。 単なる食わず嫌いもあったりする。 言葉の過敏になっている部分を慣らしていくのだ。 もっとも 生理的に無理な言葉の扱いしかしない人物も ごくまれにあるとは思うので。 そういうのは、できるだけ 無視や批判ではなく 拒絶、避ける、そっと離れる ソーシャルディスタンスをとるのが得策かもしれない。
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