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😶 人間の成長とは何を指すのだろうか?※不快な表現あり (▼ ネタバレを含むコメントを読む。 ▼)少々前に『卓という物に対する姿勢』と言った旨で日記を書かせて頂いたのだが、その内容を実践した。 結論から言うと自己満足以上の結果を齎さなかった。 『取り敢えずベストは尽くしたんじゃない?』というぐらいで、最初に合わないと判断するだけの材料を得ていたならそこで答えが出ているも同然だったのだ。 しかし、私はあの中で書いていた思想や求めている物に関しては間違いだとは思っていない。妥協はして良い事としては成らない事がある。これはしては成らない事だった。なら私は妥協しない。 ここから先はグチの様な物なので、お目汚しをするかもしれないから、もしも読むとしたらここで一度考えて欲しい。 先ずなのだが、私は人が悪い部分を修正する為に変化しようとする時、そこには多大な『羞恥』が伴うと考えている。 ただそれは切っ掛けは他者に有ったとしても、全て自らの内側に向けられる純粋な物だ。 自己の行動を後悔や反省の入り込む隙間が無い程、ただひたすらに恥じ入る事だ。『それが自らと向き合う』という事の、真の意味する物だ。 本当に『恥』という物を覚え、真剣に捉える人間はわざわざ相手に自分を卑下する様な反省の弁を振るわない。 100%が自らの内に向けられ、いっその事盲目的に成る程に変化する事に全力を注ぐのだ。 もっと付け加えると、指摘を受けている時にまるで自分が劇の登場人物であるかの様なふざけた言動はしないし そこから『自分は恥じ入っている』と言い出しても、それは単に『自らが指摘され、心理を暴かれ、糾弾されている』という事に対するバツの悪さや、拒否・忌避感から来る物でしかない。 私はこれを少し前、習慣の思索を行う中で勝ち得る事で理解した。しかし、自らはあたかも貪欲に他者の言を吸収している様に振る舞い、恥じ入る『フリ』をする様な人間は、それを永遠に得る事は無いだろう。 何故なら表面的に『自らが貪欲であり、折れぬ精神性を得ている』などと吹聴し、アピールする人間は単に傷付きたくないからそう主張するのであって、他者からの意見など本質的な所ではどうでも良いとすら思っているのだ。 だから傍から見て学習も、進歩も無い。更に言えば、それは『自分を保つ為の手段』として他者を利用しているに過ぎない。 他者に対して真面目に向き合う事もなく、『自分の世界観の中で他者と物語を作って行く』のですら無い。 『自分の世界の物語を他者を使って作る』のだ。 これは吐き気を催す邪悪だ。 だが、そういった行いは実際の所、自分が傷付いているという事を証明している様な物だ。滑稽でしかない。 一旦落ち着こう。つまり、私が言いたい事を纏めれば、人の変化の引き金は常に切っ掛けは有っても、それは内面にしかないという事だ。 そして最後に、こんな事を誰かが言ってくれる事は、酷く幸運だと思った方が良い。人は一生の内に真剣に向き合ってくれる相手と出会う事等一度や二度有れば良い方だ。 予言ではないし、誰とも言わないが、上記のような人間は生涯そんな人物に遭遇する事は無いだろう。 精々が同族同士の傷のなめあいが関の山だ。何の相乗効果も生み出さん。
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