遊牧家族さんの過去のタイムライン
2017年04月
遊牧家族 | |
2017/04/21 17:57[web全体で公開] |
遊牧家族⇒双桜 | |
2017/04/13 20:25[web全体で公開] |
マスタリングの良し悪しによって一本道の悪い面が際立ってしまうことがあるのはその通りだと思います。 逆に、シナリオ自体は一本道でも、マスターのテンポ作りが上手ければ楽しいセッションになる、と冒険企画局の近藤局長も仰っていました。 無理な誘導……というとツイッターで見かけた、 「行こうとしたホテルでロコツナユウドウタケというキノコが大発生して泊まれなくなりました」 というのを思い出します。 こういったジョークでプレイヤーを和ませられればかっこいいですが、いつもできるとは限らないので、 「申し訳ないがその行動を許すとこのシナリオの目的を逸脱してしまう」というように正直に言えるよう 心がけておいたほうがいいのでしょうね。
遊牧家族⇒くっきー | |
2017/04/13 20:14[web全体で公開] |
「一本道シナリオ」という言葉で指しているものが人によって違う気がしていました。 こうして分類していただけたので頭の中がスッキリした感じです。 ありがとうございました。
双桜⇒遊牧家族 | |
2017/04/13 10:34[web全体で公開] |
> 日記:一本道シナリオを書くのって難しくね? 通りすがり失礼しますー! しばしば一本道シナリオが悪いといわれる所以は、まったくその通りで、加えてKP力が関係すると思います。 牛丼屋の例だと、 KP「しかしなぜか君たちは急に牛丼が食べたくなってしまいました」 とかいって無理矢理誘導する...そんなふうになってしまうからなんでしょうね。 ・違う店にいく→ありません ・店を壊す→壊れません ・家に帰る→じゃあ餓死エンドです こんなんじゃTRPG とは言えませんねw
くっきー⇒遊牧家族 | |
2017/04/12 20:09[web全体で公開] |
> 日記:一本道シナリオを書くのって難しくね? こんにちは、くっきーと申します。 一本道シナリオにはいくつかのタイプに分類されるとかんがえています。 1.針葉樹タイプ 選択肢を誤るとそのままセッション失敗になります 中央以外を選ぶと折れるという意味でこう名前をつけました 一本道シナリオに否定的な意見の多くはこのタイプが原因です 2.お通しタイプ シナリオを一切考えないGMが主に使用します 道中全ての判定はセッションの成否に無関係で、ボス戦に至る前菜です セッション開始後即ボス戦の場合もこれに該当します 3.映画タイプ 結果ありきでシナリオを作るタイプです RPオンリーのいわばムービーシーンであり、RRPが好みます 極端なのが吟遊であり、PLが全員離脱してもセッションは成功します ひとまず投下しますね
遊牧家族 | |
2017/04/12 19:10[web全体で公開] |
😶 主人公はアホやマヌケであってはならない 私が学生をしていたころ、「ジョジョの奇妙な冒険」の作者である荒木飛呂彦が講演に来たことがありました。 残念ながらライブで見ることはできず、後日行われた録画の上映会を見たのですが、 その中で彼が述べていたのがタイトルのことです。 「主人公はアホやマヌケであってはならない」 だからと言って、主人公は天才や秀才でなければならない、という意味ではなく。 読者が当然思いつくであろう解決策や攻略法を思いつかないような主人公では、読者の心を掴むことはできない。 そういうお話でした。 漫画家ですから、漫画についての講演ではありましたが、 TRPGにおいても無視できない示唆を含んでいます。 すなわち、 シナリオやマスタリングが主人公をアホやマヌケたらしめてしまうことの危険です。 例えば、TRPGでは、 「このNPCはどうしても救えないのか」ということが、センシティブな問題として現れます。 これは、救えないNPCにリソースを空費することへの恐れから来る問題でもありますが、その一方で、 如何にしても救えないNPCの存在が、プレイヤーの創作したキャラクターにアホやマヌケの烙印を捺してしまう 恐れの問題でもあります。 自分が創作したキャラクターにアホやマヌケの烙印を捺す、これほど悲しいことはありません。 ですから、GMやシナリオ作者は、キャラクターのとりうる可能性を制限することには、慎重でなければならないのです。
遊牧家族 | |
2017/04/12 18:44[web全体で公開] |
😶 一本道シナリオを書くのって難しくね? シナリオが一本道であるということは、しばしば否定的な意味で述べられます。 そこで、一本道のシナリオというものを考えてみようと思い立ったのですが、 これがなかなかうまくいきません。 以前、「シナリオとは、系統立てられた課題の集合である」というお話をしました。 クロスワードやお絵かきロジックの問題を作ったことがある人ならわかると思いますが、 解を一つしか持たない問題を作るのは、難しく、手間のかかることです。 まして、パズルではなくTRPGです。 サイコロ・フィクションであれば、起こりうる事象の組み合わせはそこまで多くはないのですが、 ベーシック・ロールプレイングともなると、数え切れないほどの事象の組み合わせがあります。 その中から、たった一つの解だけを通し、他の解をせき止める課題を作る、などということは、 あまり考えたくありません。 そして、シナリオに唯一解を用意するということは、 あくまでもその解を使ってPLを満足させねばならないことを意味します。 これはとても勇気のいることです。 喩えるなら、マーケティング調査もなしに、いきなり牛丼専門店を開くようなものです。 「ステーキが良かったのに」「すき焼きが食べたかった」と言って客が店を出ていったとしても、 指をくわえて見ていることしかできません。 このように考えると、一本道のシナリオを書くのはとても難しいことのように思えます。 むしろ、複数の展開を想定したほうが、実際のセッションでのつぶしも利くし、楽なのではないか、 と私個人は考えてしまいます。
遊牧家族 | |
2017/04/11 21:44[web全体で公開] |
😶 シナリオを作ろうコミュニティにご参加ありがとうございます。 https://trpgsession.click/community-detail.php?i=commu149147195687 おかげさまで10名様(私除く)にご参加をいただいております。 作ろうかどうしようか迷っていたのですが、自己紹介スレッドをご用意しました。 「シナリオを書いたことのあるシステム」「シナリオを書いてみたいシステム」をテンプレートに含めました。 これらを挙げることで、教え合い学び合いの機会を広げるのが狙いです。 ご参加をお待ちしております。
遊牧家族 | |
2017/04/06 19:31[web全体で公開] |
😶 シナリオを作ろうコミュニティ作りました https://trpgsession.click/community-detail.php?i=commu149147195687 自作シナリオの掲載、シナリオに関する相談、シナリオに使える資料の紹介 の3本立てです。 管理者も詳しいわけではないのでご相談に乗れない場合多々あるかと思いますが、 何卒ご容赦ください。
システム⇒遊牧家族 | |
2017/04/06 18:45[web全体で公開] |
システムからのお知らせ コミュニティ「シナリオを作ろう」を作りました。
遊牧家族 | |
2017/04/03 19:13[web全体で公開] |
😶 完全無欠なキャラクターは英雄たりえない 物語の根幹をなす要素は「行って帰る」と「欠落したものが回復する」だという話を以前しました。今回は後者の「欠落したものが回復する」に焦点を当てていきます。 人は、欠落を感じ、それを求めずにはいられない生き物です(このことについて後でもう一度考えます) 「何かが欠けている」という状態は、「それを取り戻す」という動機を呼び起こします。この性質を利用することで、人の行動や思考をある程度コントロールすることもできます。 ここではビデオゲーム「ゼルダの伝説」を例に挙げます。ファミリーコンピューターの初期のものです。ゲームのスタート時、主人公のリンクは剣を持っておらず、洞窟にいる老人から剣をもらいます。作者の宮本茂によれば、これは、敢えて何もわからないところからプレイヤーが自分で考えてゲームを進めていくためなのだそうです(参考 http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1005369.html) しかしここには他にも意図があるのではないかと私は思います。というのも、プレイヤーのゲーム体験はコンソールのスイッチを入れる前から始まっているからです。最初のゼルダの伝説はディスクメディアで販売されていました。プレイヤーはゲームをプレイする前にまずパッケージに接触します。そこには剣と盾を携えた少年が描かれています。しかし操作できるキャラクターは剣を持っていない。つまりここで「剣が欠けている」という現状が与えられ、「剣を手に入れる」ことへの動機が呼び起こされているのです。 このように、欠落は動機づけとして極めて強力です。裏を返せば、欠落するところのない完全無欠なキャラクターを作ってしまうと、外の世界に関わっていく動機を持たせることが難しくなってしまうということです。 この考え方は、他のキャラクターとの関わりを持ちたいときに有用です。相手のキャラクターに欠落しているものは何か? と考え、それの回復を助けようと行動することで、より物語らしい関わりを持つことができるでしょう。 ただし、考えの押しつけにならないように注意はしてください。
システム⇒遊牧家族 | |
2017/04/02 20:21[web全体で公開] |
システムからのお知らせ コミュニティ「そうだアイドルになろう。」の参加が承認されました。
遊牧家族 | |
2017/04/02 18:49[web全体で公開] |
😶 なぜPCは依頼を拒むのか(2) PCが依頼を拒む背景には、物語論上の要請があるのではないか、という話をしました。 英雄伝説から抽出された物語の要素の中に「冒険への拒絶」があるというものです。 ではなぜこの「冒険への拒絶」が要素として語り継がれてきたのか、今回はそこをもう少し掘り下げてみたいと思います。 参考:http://knon.hatenablog.com/entry/2014/05/13/130410 以前言及したキャンベルは、神話には人間の成長・自己実現の過程が反映されていると考えていました。 成長は変化であり、そのためには日常を離れなければなりません。「変化への「恐れ」に打ち勝つことが自己実現の第一歩」なのだそうです。 なぜ「変化への恐れ」が存在するのでしょうか。キャンベルは、ユング心理学に答えを求めています。ユングが類型化した元型(人間に共通する心の働きを象徴するもの)の一つ、グレート・マザーが変化を拒否するというのです。 http://www.j-phyco.com/category1/entry70.html 母の手に抱かれていれば安心ですが、母の手を離れることは不安です。ここでのポイントは、母もまた不安であるということです。しかし母の手を離れなければ成長はありえません。 ですから、物語の現場では、冒険を拒絶する役割を負っているのが主人公本人ではない場合もあります。ここでは堀井雄二のビデオゲーム「ドラゴンクエストIV」のアリーナを例に挙げましょう。サントハイム王国の王女でありながら武道を嗜むアリーナは、腕試しの旅に出たいと望んでいますが、父王はそれを許してくれません。結局、アリーナは城を抜け出して旅に出るのですが、ここでは父王がグレート・マザー役を引き受けているわけです(ただし、父王は単なる引き留め役を超える重大な秘密を抱えており、これが堀井の業前です) さて、「冒険の拒絶」についての理論は以上のようなものなのですが、もう一つ意味があるのではないかと私は考えています。 「日常と非日常、双方の価値を高める」という意味です。 物語の根幹は「行って帰る」ことにあるということは以前お話ししました。そしてこれは共同体の中で成人と認められるための通過儀礼(イニシエーション)も意味しています。 もしここで、この通過儀礼が「帰る」のプロセスを欠いていたらどうでしょう。進化論的に考えて、そのような共同体からは若者がどんどん出ていき滅んでしまいます。「行く」と「帰る」の両方を備えた共同体が生き残ってきたと考えるべきでしょう。そして、そうした共同体は、「帰るだけの価値がある」ものでなければなりません。だからこそ、それから離れることに恐れを抱くのです。 つまり、「冒険の拒絶」は、主人公が属している共同体―日常の価値を確認する働きを持っています。 一方、主人公が旅立つべき非日常は、危険で、困難に満ちていなければなりません。日常と変わらず安穏とした非日常では、「行く」ことにならないからです。主人公が、誰かに言われたからといってホイホイ旅立っては、困難を認識していないか、そもそもそのような困難が存在しないのではないかということにもなりかねません。 「冒険の拒絶」は、これからの旅に困難が伴い、それゆえ達成すべき課題も存在するということも確認しているわけです。
遊牧家族 | |
2017/04/02 11:59[web全体で公開] |
😶 なぜPCは依頼を拒むのか 依頼を受けようとしないPC、は古くからある問題です。 そして、PCの依頼拒否による進行の停滞を防ぐためのテクニックがいくつか編み出されてきました。 すでに事件に遭遇した現場からセッションを開始する「ホットスタート」などがそうです。 ですが、ここでは、なぜPCが依頼を拒むのか、その理由について考えてみたいと思います。 今回取り上げる理由は次の3つです。 1.単なる進行妨害又は嫌がらせ 2.依頼を受けることの合理性の欠如 3.物語論上の要請 1は論外です。この理由で依頼を拒むのなら、そのPCをセッションから放逐することも止むを得ないでしょう。 しかし、そのPCを放逐する前に、本当に1の理由だけで依頼を拒んでいるのか、を慎重に吟味せねばなりません。 それを怠ると、よりよいセッションの時間を持つことのできる可能性を放棄することにもなりかねないからです。 他の理由はないか。そこで次に、2に挙げた合理性の問題を吟味してみます。 (この理由について議論しているブログ記事がありますので、そちらも参考にしてください→http://d.hatena.ne.jp/bit666/20130202) どんな依頼にもリスクとベネフィットがあります。どちらか又は両方を欠いたものを依頼とは呼べません。 ですから両者を比較衡量して可否を決定するのですが、その結果としてリスクがベネフィットを上回っていたり、そもそもリスク又はベネフィットを見積もるための情報(パラメータ)が不足しているといった事態が起こります。 そうだとすれば、依頼を拒否する又は保留することは合理的な判断たりえます。 しかし、このような損得勘定によらない理由が他にあるのではないか? そこで3の物語論上の要請に移ります。 これを理解するには少しばかり前提知識が必要です。 アメリカのジョセフ・キャンベルという学者は、世界の神話には人間の自己実現の過程が反映されているという考えのもと、世界の神話、特に英雄伝説を分析し、それらに共通する仕組みをまとめあげました。彼の業績は多くの作家や映画脚本家に影響を与え、名作とされる作品を生み出すきっかけとなりました。 ハリウッドでDevelopment Executive(映画化に値する原作を探したり、脚本家を指導したりする役職)を務めてきたクリストファー・ヴォグラーは、キャンベルの理論をもとに、脚本家のための手本として「神話の法則」を発表しました。 なのですが、実はこの「神話の法則」の中に「冒険への拒絶」という要素が含まれています。 (詳しくは→http://kenkyu-labo.com/02/shinwanohosoku.html) 例を挙げましょう。ここでは、ウォルフガング・ペーターゼン監督の映画「ネバーエンディング・ストーリー」を取り上げます(原作については言及しません) 本の中の世界ファンタージェンを救うための旅に出ることを予言された勇者アトレイユは、神官や民衆(そして本の読者であるバスチアン)に子供扱いされたことに臍を曲げ、「バッファローを狩りに行く」と言って一度は依頼を断ろうとします。アトレイユは草原の民という種族で、狩りは彼にとっての日常です。つまり彼はここで冒険を拒絶し日常に留まろうとしていました。その後曲がりなりにも勇者と認められ、ウロボロスのアウリンを授かり旅に出ることになります。 また、本の読者でありこの映画の真の主人公であるバスチアンもまた、一度冒険を拒絶しています。彼はアトレイユの旅に付き添い、食事を共にし、仲間の死を悲しみ、敵を前にする恐怖を覚えますが、それらはあくまで読者としてのことです。しかしファンタージェンを救えるのはその世界の民ではなく自分自身であると知らされたとき、「これはただのお話じゃないか!」と一度は否定しようとします。彼は本好きの根暗な少年という自分の日常を固持しようとしたのであって、この時点で彼は本当の意味で冒険に出発してはいなかったのです。 「冒険の拒絶」は、キャンベルが世界の神話の中から見出した要素です。ということは、私たちの精神のわりと深い領域に根ざしている可能性があります。依頼を拒むPCのPL本人は意識していないことがほとんどでしょうが、だからといって軽視してよいものでもないと思います。
遊牧家族 | |
2017/04/01 23:01[web全体で公開] |
😶 TRPGと成長、そして物語 将棋の駒は、敵陣に踏み込むことで移動能力が向上します。 しかし、その効果が及ぶのはその対局の中だけです。 「さっきの局で俺の飛車は龍になったから次の局では龍スタートな」 ということは通用しません。 そう考えると、ミニチュア・ウォーゲームに端を発するTRPGに、 成長という要素が存在するのは、実は不思議なことのように思えます。 そして、この成長という要素こそが、TRPGにおいて物語が重視される 時代の流れにつながっていったのではないか、と私は考えています。 それでは、成長とはどういうことを言うのでしょうか。 コンピューターRPGでは、マップを歩き回って見つけた敵を 倒し続ければレベルが上がることが多いわけですが、 それはレベル上げという作業であり、(例外はあれど)退屈なものです。 漫然と探索や戦闘を繰り返し、能力を表す数値が上昇したとしても、 そこに成長を見出すことは難しいでしょう。 人が「成長した」と感じるとき、どのような仕組みが働いているのか。 実は、その仕組みは、物語の仕組みを研究する中で見出されてきました。 ビデオゲーム「魍魎戦記MADARA」の原作で知られる大塚英志は、 物語を作る技術そのものをビジネスとした、日本における第一人者です。 大塚は、20世紀に花開いた物語研究を踏まえ、物語の根幹をなす要素を 「行って帰る」と「欠落したものが回復する」であるとしています。 (参考 http://knon.hatenablog.com/entry/2014/05/14/120940) 「行って帰る」って、どこに行ってどこに帰るんだよ、という気もしますが、 日常から非日常に「行って」、再び日常に「帰る」という意味です。 これは、共同体において成熟した人と認められるための通過儀礼 (イニシエーション)の意味を持つのだそうです。 単に日常から非日常に「行く」だけでは、世界に振り回されているのと変わりません。 非日常から日常に「帰る」ことができてはじめて、成長したことが認められます。 もうひとつの「欠落したものが回復する」はイメージしやすいと思います。 欠落しているのは、村に伝わる宝物かもしれませんし、世界の平和そのものかもしれません。 何にせよ、人は欠落を感じ、それを求めずにはいられないのであって、そのことが成長の原動力になります。 こうしてみると、物語と成長は不可分であることがわかります。 セッション後、ただ数値を上昇させるだけに終わらせず、 キャラクターが日常に帰れているか、欠落を回復できているかということを考えることによって、 より成長を実感でき、物語らしいセッションに近づくことができるでしょう。