😶 逢坂心音の幸福 (▼ ネタバレを含むコメントを読む。 ▼)私には何も無いと思っていた。 特に抜きん出た才能もなく、他人と比べると劣る部分ばかり。 大好きだったピアノは、友人よりも上手くなかった。 それでも捨て切れずにピアノを続けてはみたけど、結局舞台で弾く夢は叶わなかった。 だから、私に残ったのは苦痛だけだった。 ただ、劣等感に苛まれて醜く蠢く肉の塊。 嫉妬心が渦巻く愚かで見るに堪えない姿。 私と言う人間はそんな感じだ。 だから、死ぬ時はあっさりと死ぬんだろうと思っていた。 誰も悲しんでくれる人間はいないだろうと。 でも…… 私を助けてくれた人がいた。 その人は怪物から私を庇って、片腕を失ってしまった。 罪悪感が沸いた。 いや、違う。 罪悪感が沸いていると錯覚したかったんだ。 彼の腕が柘榴のようにぶちゅりと潰された時、私が考えていたのは。 「ああ、自分じゃなくて良かった」 そんな、ちっぽけで愚かな安堵が私の中を渦巻いていたのだ。 誰にも見せたくなかった。 自分が、そんな汚い人間だって事を。 穢れきった自尊心が、私の本音が喉を通る前にその言葉を握り潰した。 後日、病院で彼と再会した時。 私は何て言えばよく分からなかった。 お見舞いに持って来た果物を持って、むずむずしていた。 今思い出せば、まるで生娘みたいな反応だったでしょうね。 とにかく、まずはお礼を言った。 あの時は慌しくて言いそびれてしまったから。 私を助けたのは、咄嗟にだったらしい。 別に、彼とは恋人とかそう言うのでは無い。 それなのに……私の所為で腕を失った事を特に悪く言っては来なかった。 利き腕じゃなかったからまだ平気だ、と。 私は彼がそう言うのを聞いて信じられないと思った。 私なら、口汚く罵っていただろう。 お前を助けた所為で、もうピアノが弾けないじゃないの。 多分、立場が逆ならそんな事を言っていたんじゃないだろうか。 この人は私とは違うタイプの、心根が優しい人なんだ。 私とはきっと、釣り合わないだろうな。 ……私、なんでそんな事を考えたんだろう? しばらくして。 事件が片付いた後、私は再び彼のお見舞いにやって来ていた。 最初に訪れた時はお礼を言う為。 もうお礼は言ったのに、何故私は再び訪れたりしたのだろうか。 色々な事があって、彼の仲間は何人も死んでしまった。 悲しい事だけど、生きている限り希望を捨ててはいけない。 彼はそんな事を言っていた。 私にはその姿が眩しかった。 私はただ、生きる為に生きていたから。 何も持っていない私には、彼が素晴らしい人間だと思えたのだ。 普段ならそんな人間、妬んだり憎んだりしている筈なのに。 何だろう、この心の高揚は。 私が戸惑っていると、彼にいきなり話しかけられた。 思わず高い声を上げてしまった私を、彼は不思議そうに見ていた。 あまり、私をそんな目で見ないで欲しい。 恥ずかしいから。 彼がやっと退院する日になった。 私は病院のロビーで彼を待つ。 何処か心が浮き足立っているのを実感していた。 理由は、分からない……いや、自覚したくなかったのだ。 私が彼の事を、こんなにも想っているのはきっと…… たった一度、助けられただけなのに。 私はどうしても彼を意識する。 意識してしまう。 まるで心臓が自分の意思ではないかのようにどくどくと激しく動いていた。 そうこうしていると、彼がやって来た。 私は彼に、思いの丈をぶつける事にした。 私が助けられた後に考えた事も。 今の気持ちも、全部。 彼は最初はやや面食らっていた。 私がきっと汚い人間だからだ。 彼に嫌われるのも覚悟の上だった。 彼にはきっと、私よりももっと素敵な女性が似合うだろうから。 私なんかよりも…… そう考えると、心が煮え繰り返って抑えが効かなくなってしまう。 きっと、私の性根が腐っているのだろう。 それでも、黙ったままでいるのは嫌だったから。 私は俯いて静かに彼の言葉を待った。 判決を言い渡される被告人のような気分だった。 助けて損をした、とか。 そんな事を言われるかと思った。 だけど。 彼は私の頭を優しく撫でてくれた。 自分は、貴女の事をそんな悪く見てなんかいないよと。 私はそのまま顔を上げれずに俯いたままでいた。 見られたくなかったからだ。 それは、私が汚いからじゃなくて。 顔が真っ赤になっていただろうから、だ。 私の事を初めて認めてくれた人。 私の代わりに腕を失った勇敢で優しい人。 私の貧しかった心の火鉢を暖かくしてくれた人。 私の……愛おしい人。 私には何も無かったのは、もう昔の話だ。 彼との間にはもう罪悪感もなく、ただ感謝しかない。 助けてくれた事とか、認めてくれた事に対する感謝ではない。 私の側に居てくれるだけでいい人だから。 私が失った片腕の代わりになれるかは分からない。 私が嫉妬心と猜疑心だらけの人間なのはきっと永遠に変わらない。 だけど、彼と一緒なら少しは変わるのかもしれない。 だって、こんなにも今が幸せなのだから——
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