【ゆうやけこやけ】「甘い夢に、無我夢中」

Nサブリプレイ  3
登録日:2020/02/13 08:14最終更新日:2020/02/13 08:14
 ※
 澪は、鵜坂川に住んでいる人魚である。
 ある日夢の中で、不思議な獏たちに出会い、一緒に探し物を手伝って欲しいと誘われたところから、話は始まった。

・あおい(PL:Kulix葵さん)
【性別】♀ 【年齢】5【人化時年齢】8【正体】兎
《能力値》[へんげ:3] [けもの:1] [おとな:0] [こども:4]
https://trpgsession.click/character-detail.php?c=157216650062KulixArisu98&s=KulixArisu98
「今日は何してあそぶ?あおいだよ!」
「えっとね!あおいはね!友達と一緒にあそぶのが好きな兎だよ!」
「あとね!ふしぎな事をするのが得意だよ!よろしくね!」

・アヤメ(PL:cod fishさん)
【性別】めす 【年齢】人間の姿は15くらい【正体】狸(ホンドダヌキ)
《能力値》[へんげ:3] [けもの:1] [おとな:3] [こども:1]
https://trpgsession.click/character-detail.php?c=153778803530codfish0408&s=codfish0408
「【おちょうしもの】で【やんちゃ】?そんなものは他人が勝手に決めたこと。私は楽しいことが好きなだけよ。」
「小さくて可愛いお友達が2人もいるなんて、今日も楽しくなりそうね。」
「まぁ、私は【のんびり】していたいけどね。」

・鵜坂川の澪(PL:餅雪@朧豆腐さん)
【性別】♀ 【年齢】12歳【正体】人魚(河童)
《能力値》[へんげ:3] [けもの:2] [おとな:0] [こども:3]
https://trpgsession.click/character-detail.php?c=1572187174770mochi&s=0mochi
「私は鵜坂川の澪。鵜坂川に住んでる人魚だよ~みおって呼んでね~!」
「かわいいものと~水鏡の占いと~お歌が大好き!寒いのと怖い人はいや」
「男の子の前ではちょっと緊張しちゃうかも。いつか私も王子様を見つけるんだ。ふふ~よろしくね!」


 ※
・蜘蛛の巣の海で

「……明晰夢?」
 澪が思わずそう聞き返すと、獏の妖怪は真面目な表情で「はい」と頷いた。
「本当は、ここは夢の中なんです。澪さんは寝ていて、この夢を見ているだけなんですよ」
「え、ええと……」
 そいつは少女の輪郭をしていた。眠たげなとろんとした瞳。ぶかぶかのナイトキャップの下で、澪のことを面白がるような表情で見つめている。
 澪は初めに無意識に、“川の外”へ出歩く時にはいつも持っていく、お水を入れたペットボトルを探した。人魚であり、またひとりの乙女でもある澪にとって、お肌とウロコの乾燥は大敵だからだ。
 きょろきょろ戸惑っている澪をからかうように、くすくすと鈴を転がすような笑い声がすぐ隣を泳いでいった。それは聞きなれた、同郷の人魚たちの声だった。
 あらァ澪、忘れもの~?
 たいへん、たいへん~!
 くすくす。くすくす。
 不思議なことに、澪が視線を合わせても、カメラのピントがぼやけたように、うまく彼女たちの表情が見えてこない。朝起きた途端に消えていく夢の「なごり」のように、意識しようとする澪の視線からするすると離れていってしまう。
 それはまるで、精密に描かれた人物画の背景のように、あまり重要な部分でないからおざなりにされた、というような感じがした。
 やがてその視線は、上下左右、あらゆるところへ向けられる。時には自分の足元にも。大きな影だと思ったら、小さな魚の大きな群れで、きらめく鱗はぴかぴかと青に黒に輝いていた。イタズラ好きなイルカがくすぐるように近づいてきて、一抱え以上もありそうな大きなタコが悠然と泳いでいる。
 そう、ここは海の中なのだった。
 春のように暖かく、すべての生き物をその腕の中に抱きかかえていた。川に寝床を構えている澪は、その広大さに思わずくらくらとしてしまいそうだった。
「他の方たちは、うまくお呼びできませんでした。澪さんとはお友達同士でも、あのお二人とは、全然知らないわけなので」

「あのふたり?」
 確かに獏の少女が指さす方には、兎と狸の妖怪が話し込んでいた。
 小柄な方、ぴょんと突き出た大きな耳が目立つ方が、兎の変化のあおいだ。兎の姿でも人に変化した姿でも、小さくてふわふわで可愛らしくて、澪はついついぎゅうっと抱きしめてしまいたくなる。今も忙しなく両手と両足を振り回して、感情もあらわにもう一人の方へ何かを語りかけている。
 それに答えて頷いているのが、狸の変化のアヤメだった。見た目こそ、澪たちとそれほど変わらない女の子の姿なのだが、華奢な見た目に反して結構な長生きで、中身は老獪といってもいいぐらい(なにせ狸だからね。というのは本人の弁だ)。とはいえ狸らしく、おっとりのんびりとした気性でもあり、三人ともに馬が合うのだった。
 楽しそうにはしゃいだ様子のあおいも、のほほんと感心した様子のアヤメも、「へええ!」「これはこれは、驚いたわねえ」と感心したように声を上げながら、ゆらゆらと海流に揺られつつ、物珍しそうにあちこちを眺めていた。
「ほぇぇ……あ! あ、アヤメお姉ちゃん! 水の中なのに、息ができるよぉ」
「あら。本当ねえ。全然気がつかなかったわ。……あ、でも、夢を見ている時って、意識すると急にできていたことができなくなったり、しない?」
「……えええ!?」
 それを聞いて、急に息苦しくなったみたいに、あおいは長い耳を「ぴん!」と立てて口元をおさえた。のんびり屋の狸はその様子に「どうしたの?」とばかりに首を傾げている。

 そんな二人を見て……澪はなんだか、胸がいっぱいになるような気持ちだった。
 ふよふよと海底を漂う彼女のそばを、一緒に泳ごうとばかりに、イルカやカメが誘いかけてくる。川や池の生物たちも、一緒くたに夢の中の海を泳いでいて、それはなんだか、とても雄大だった。
「ゆめ……」
「例え、起きていたら決して出会わない生き物たちでも、夢の中では、みんな一緒なんです。当たり前に、同じ時間を過ごしているんですよ」
 獏の少女はそういった。
「そうなんだぁ……」
 それは……澪だって、同じ気持ちなのだった。
 あおいやアヤメたちは、もちろん大切な友達だった。でも、二人は兎と狸で、地上を歩く生き物だ。尾と鱗を持った自分と二人では、どうしたって重ならない部分が、いくつもあるのだ。
 でも夢の中では、こうして一緒に泳いでいられる。うまく言葉にはできないのだけれど、澪には、それはとてもすごいことのような気がした。
「あー! 澪おねえちゃんも! すっごいね、澪おねえちゃん!」イルカの群れに手を振っていたあおいが、こちらに気づくとにこにこ笑いかけてきた。

 だんだんと、澪はそわそわ落ち着かなくなってきた。
「じ、じゃあ、じゃあじゃあ……! なんでも、できるんだ……?」
「はい。そりゃあもう何でも」
「ええと、お菓子の家に住んだり、雲の上を泳いでみたり……?」
「ええ、もちろん――」
 それに答えて、獏の少女は頷いた。
 その瞬間、澪の意識は遥か遠くに弾き飛ばされた。

 ぴゅん、

「――できますよ」
 彼女が言い終わるより先に、視界が物凄い速さで動いたかと思うと、次の瞬間には、澪はもう懐かしい海の中ではなく、今まで一度も見たことのない場所に立っていた。
 すべてがひっくり返って、あたり一面、真っ白な雲の世界だった。
 燦々とまぶしい太陽の光が差していて、足元の雲はどこまでもふわふわだった。すぐそばにはとても可愛らしい、扉はクッキーに屋根はチョコレートで出来た、素敵なお菓子の小屋が立っていて、焼き立ての甘い匂いが漂っていた。
「……ふぇ!?」臆病な兎がびっくりしたように叫んだ。
「まぁ、なんて素敵! とっても素敵だわ!」
 澪はぱあっと笑顔を咲かせた。思わず、興奮のままに、雲の上でくるんと身を翻して華麗な宙返りを決めた。
 川面から身を乗り出しているだけの時と、それはまさに雲泥の差だった。分厚い水のレンズを通して感じる太陽の光との違いも、そよそよと体に感じる暖かい風も、全てが未知の感覚だった。
「おお、これはこれは」獏の少女もきょろきょろと見回す。「よい夢です。とても素敵な夢ですね。澪さんは、大事なことがわかっているみたいだ」
「うーん。雲はそのまま、綿飴なのねえ。夢の中だから、気にしないでいいんだけど」
 アヤメは、ちょっとべたついたように片足を上げた。どちらかといえば、甘いお菓子よりは、お茶に合うしょっぱいお煎餅が好きそうだった。

「んん~、だいじなこと?」
 澪はそう聞き返したが、そこで、ぴょんとあおいが楽しそうに割って入って、
「澪おねえちゃん、すごーい! まるで鳥さんみたいっ!」
 楽しそうに叫んだ。
 澪は始め、言われた意味がよくわからなかった。しかし……やがて、尾の先に、白く後を引く雲の残滓に気がついた。どうやら自分は、白い雲海をふよふよと漂っていて……温かい春風に運ばれて、少しずつ、雲の上を動いていっているのだった。まるで、ジュースをいれたコップの中に泳がされている、オモチャの魚みたいだった。
 そのガラスのコップ越しに、みんなと目が合った。いつもは水面から見上げる格好だから、目線が同じ高さにあるのは、なんだか変な気分だった。
「あ、あわわ……!?」
「あらあら、澪?」
 途端、丁度さっきのあおいみたいに、自分で気がついてしまった瞬間から、澪はもう、そうとしか思えなくなってしまったのだ。
「お、お……」
「おぉ?」のほほん、とした狸の声だ。
「お……落ちちゃう~!!」
 大慌てでアヤメに手を伸ばして、掴んだ指先をぎゅっと握りしめた。なんといっても澪は人魚なのだ。常に泳ぎ続けていないと落ち着かなくて、高いところなんてもっての他なのだった。
 澪の気持ちを知ってか知らずか、狸のアヤメは相変わらずのんきな表情のまま、「大丈夫よ~」と気楽に頷いた。
「ほら、もう落ちていかないわ。離したって平気よ~」
「だめ~!! し、尻尾の先から落ちちゃうよ~!!」
「落ちたって平気よぉ。なんたって雲が綿飴なんだもの。きっと、お祭りの屋台に落ちるだけよ。わたし、綿飴ってお祭りでしか見たことないもの」
「よ、余計だめ~~!!」

 ――ぉぉぉん――ん。
 そうやって澪たちが騒いでいる中で、やがて突然、空が何かに覆われたように影がふっと落ちてきた。
「……おや?」
 それに気がついたのは、澪と獏の二人だった。
 アヤメに手を握ってもらって、半分泣きながら夢の中の蒼空で空中遊泳を続ける澪に、獏は愉快な表情で応援をしていた。何もないところからカラフルな万国旗をするすると引っ張ったり、帽子の下から巨大なラッパを吹き鳴らしたり、どこからともなく怒涛の羊と獏の群れを呼び出したり、あおいと一緒に羊の上で踊ったりしていた。
「たらったらったらん♪」
 あおいは軽快にステップを踏む。びしり! 決めポーズと共に、クラッカーが打ち鳴らされ、色とりどりのリボンが尾を引いて舞った。獏がせっせと紙吹雪を飛ばしている。さらに一抱えもある巨大な花火を岩陰から引っ張り出してきて、次はこれを打ち上げるので、あおいさんそんな感じの踊りを一つ頼みます、などと無茶ぶりをしていた。
 獏の少女は、澪が水の生物であるように、あおいたちが地上の生物であるように、夢の中の住人なのだから、「それ」に心当たりがあるようだった。
 澪の方は、下を見るのがすっかり怖くて、必死に空ばかり見つめていたから、すぐに「それ」に気がついた。でもそれも、あとから考えると、あんまり……知りたくなかったかもしれない。
「虹の蹄のビヒモスですねえ」
 まぶしそうに手をかざして、獏はのんきな調子で言った。
「うわあ。久しぶりに見ましたねえ。みなさん、ラッキーですよ」
 彼女の視線の先には、まるで太陽よりも大きく見えるような、途方もない大きさの、空飛ぶクジラが飛んでいた。
「……ぉぉぉん……」と低く低く唸りながら、ぐんぐんとこちらへ近づいてくる。がぱっと開いた大きな口に、澪はなんだか、とてつもなく嫌な予感がした。
「ぁ……」
「え? ああ、大丈夫ですよ。わりあい、大人しい生き物ですから」澪の表情を見て、獏は目をぱちぱちとさせた。
 ところが、そんな彼女の言葉とは裏腹に、巨大な口は見る間に大きくなっていく。
「く、くじらさ……」
「……ありゃ?」
 ぱくんと、辺りの雲も構わず丸ごと、澪たちは飲み込まれてしまった。
 そのままクジラは優雅に身をくねらせて、静かな雲海を再び泳ぎ始めた。


・澱んだ心の奥に

「……ほえ?」
 惚けたようなあおいの声に、気づけば澪たちは夢の続きの、見覚えのない別の場所に立ち尽くしていたのだった。
「あれ~? ど、どこだろう、ここ? いつのまに?」
「あらぁ、起きたわけじゃ……ないみたいね。夢の中で、また別の夢かしらぁ」
 あおいも、アヤメも、不思議そうに首をひねっていた。
 澪は、どきどきする胸をこっそり撫でおろしながら、安心してため息をついた。
「……あっ。アヤメおねえちゃん、オライリーちゃんがいないよ!」
「んん。ほんとうねぇ。どこに行ったのかしら……?」
「まいごかなあ?」
「そうみたいね~」
 そこは、森の中を通った一本道のど真ん中みたいだった。
 左右には、澪たちの何倍もの背丈の木々が立ち並んでいて……けれど、枝葉はどれも細くて枯れ葉が目立ち、二人が言うには、痩せた樹木ばかりが目立つ、あんまり見覚えのない森らしかった。鬱蒼とした雰囲気なのは、太陽の光があんまり届かないためなのだという。
 小道は前にも後ろにも続いていて、森の中を、くねくねと左右に曲がって、その先はよく見えなかった。
 澪はふよふよと浮かびながら、落ち着かなげに尻尾をびちびちとさせた。結局、ここはまだまだ夢の中、ということらしい。

 そこは、他人の夢の中に間違って入ってしまったような、もやもやした違和感があった。
 それを聞くと、二人は言った。

 夢の中には――。あおいがいった。
 夢の中って、真っ暗なお部屋だったよ。
 ひとりぼっちで、なんにもわからなくて、なんだか怖いって思ったの。わたしはそこで、なんでもなかった。
 でも。と、あおいは首をひねった。
 だけどなんだか懐かしかったかも。
 自分の言葉をたしかめるように、見たこともない夢を思い出す。
 最初はわたしも“ああ”だったのかな。
 最初って、なに? 澪が聞き返す。
 あおいは素知らぬ顔で、長い耳をなでつけた。

 夢の中には――。アヤメがいった。
 どこまでもどこまでも、見果てぬ地平線があったわ。
 いろんなけものがいたわ。
 ご近所さんも、ご先祖さまも。
 狸のお隣さんも、兎のお隣さんもいたわ。
 でも。と、アヤメは考え込んだ。
 見たこともないけものはいなかったわね。
 見たこともないって、なに? 澪が聞き返す。
 途中でいなくなったって気がするの。
 アヤメはなんだか寂しそうだった。

 ……澪の夢とは、海の夢だ。
 広大で揺るぎない、あたたかな海。
 だからやっぱり、この青々とした森の景色は、澪にとっては別の夢だった。

 二人が言う。
 さっきの獏の変化から、それぞれの夢で、なにやら探し物を頼まれていたらしい。
 ただ、詳しくはまだ聞いてなかったようだ。澪の見ている夢の中まで繋がって、みんな揃ったら初めて説明を聞く予定だったらしい。
 よくわからないけどさ。あおいがいう。
 困ってるなら、助けてあげましょうよ。アヤメも頷く。
 それがいいわね。澪もおんなじ気持ちだった。そういうことに、なった。
 そんな彼女の後ろから、
 不意に。

「――こんにちはっ!」
 まるで場違いに、元気で明るい声が聞こえてきた。
「ふぇぇ!?」
 びっくりして飛び上がったのは、気弱なあおい。一目散にアヤメの背後に隠れて、着物の裾をはしと握りしめて震えている。
「こんにちは~?」
 アヤメは振り返ってから、聞こえた声に驚いている。のんびり者の狸らしい様子だった。
「あら。あなた、いったいどちらさま~?」
「――はじめましてっ! みんな、こんなところで、なにしてるの?」
 それは、明るく澄んだ、夏の太陽のような少年だった。
 背はそれほど高くない。三人の中で一番小さいあおいより、さらに少し下ぐらいだった。髪は黒くて、よく日に焼けた肌。腕や太もものところは、小さいのにすらりとして引き締まって見えた。見た目も声も幼いけれど、髪と同じ色をした黒い瞳はとてもまっすぐで、まるで、山の奥の深い深い川の流れで艶々に磨き上げられた宝石みたいだった。
 間近で目を合わせた澪は、不意に背筋が「どきり」とした。
(お、お……)
(男の子だ……っ!?)

「なにをしてるの、って? さぁねえ。特に、なにもしてなかったわね~」
 そう言って、アヤメは頬に手を当てて考え込んだ。振り返って、自分の着物に隠れようとする兎に声をかける。
「ねぇ、あおい~?」
「……ふぇっ!?」
 あおいはぺたりと耳を畳んだ。そんな彼女に、少年はにっこりと微笑みかけた。
「こんにちは! ねえ、君は?」
「ええっ……? あ、あおいはあおいだよ……」
「そっか。……僕はルゥ。よろしくね、あおい!」
「わたしはアヤメって呼んでね~?」
「うん、アヤメだね?」
 ルゥと名乗った少年は、そうやって二人と言葉をかわすと、そのまま澪の方にも視線を向けてきた。
 そして彼は、目を丸くした。
 澪の足があるところへ、代わりにくっついている尻尾に気がついたのだから、その反応も当たり前だった。

 澪は鵜坂川に住んでいる人魚だ。そのため、変化としてかしこまって名乗るなら、「鵜坂川の澪」ということになる。
 変化なのだから当然、普段は使わない力、溜め込んだ「ふしぎ」と「想い」を使って、人に化けることは、そう難しくはない。
 けれど、今は……夢の中とはいえ、いきなり声をかけられていて、完全に人魚の姿のままだった。しかも、それだけではなくて……髪からは、じっとりとした粘液が滴っているし、川に住む生き物だから、ちょっと生臭かった。
 乾いた陸の上にいて、それはとても目立っていた。澪は、地面に落ちている枯れ葉に、じとじとした水が落ちる音を、どこかぼんやり聞いていた。

 ぼふ!という音がして、澪が白い煙に包まれた。変化をしたのだった。
「えっと……み、澪です」
 胸の前でぎゅっと両手を握りながら、恐る恐る、澪は言った。
 しかし少年は俯いたまま、小さく震えていた。
 やがて、澪が不安でおろおろとして……そして、次の瞬間、
「すっごーい! お姉さん、人魚なの!?」
「……え?」
 澪は、彼のきらきら光る宝石のような瞳を、すぐ目の前で見ることになった。
「すごいすごい! 人魚って、本当にいたんだね! ベラは嘘つきじゃなかったんだ!」
「えっ、と……」
 少年は興奮して、澪の手をつかんでぶんぶんと振り回した。
 澪はされるがままに、みるみる茹で上がって、耳まで真っ赤に染めながら(だって――男の子と手を繋ぐなんて!)助けを求めるように、二人を見た。
 アヤメはこてんと首を倒していたけれど、すっかり赤くなった澪を見ると、すべてを了解したように、大きく一つ頷いた。年長者のなんとも頼れそうな様子に、澪はほっと一安心したのだが、
「――えぇ、そうそう。この子は、とっても素敵なの~。人魚の中でも、お姫様なのよ~?」
「ええー! 本当に?」
「ちょ、アヤメちゃん!?」
 澪が止める間もなく、ルゥは割れんばかりの大声でいった。突拍子もないアヤメの言葉を、すっかり信じ込んでしまったようだった。
「人魚で、しかも、お姫様なの!?」
「そうよ~? だって、とっても可愛くて、綺麗でしょ~?」
「うんっ! すっごく綺麗で、だから僕最初に、お姫様みたいだ、って思ったんだ!」
「わ、わー! わー!!」
「そうしたら、本当にお姫様なんだもんね?」
「ええ、そうよ~」
 狸の変化は大真面目な表情でこっくりと嘘をついた。

「それで……そんなルゥは、ここでいったい何をしてるの?」
 さんざん澪を振り回してから、アヤメは何事もなかったように、話を改めた。
 そう尋ねられて、幼い少年はふと口を閉ざし、黙り込んでしまった。
 わからないんだ、と首を振った。
「忘れちゃったの……。でも、誰かに、会わなくちゃいけないんだ」
「だれかって、だれえ?」一緒になって騒いで騒いで、すっかり怖がっていたのを忘れたあおいが、ぴょこんと両耳を揃えて、ルゥの顔を覗き込む。
「……忘れちゃった」
「あって、ど~するの?」
「……わかんない」
 ルゥはほとんど泣きそうな表情になった。鋭い棘が心に突き刺さったみたいに、ぐっと唇を噛みしめて堪えていた。見守る澪の方こそ、彼の気持ちを慮って、悲しみが胸いっぱいに溢れてきてしまうぐらいだった。
「わっ。ね、ねえ……ルゥ、どうか泣かないで……」
「うん……」
「きっと……きっと、それを悲しく思うのは、その人のことを、本当に大切に思っているからなんだわ。でも、だって……忘れちゃうのもしょうがないのよ。夢の中……なんですもの」
「ね~。男の子が、そんなに泣くもんじゃないわぁ」
 澪が、アヤメが、口々に声をかけた。健気にも少年は、二人を安心させようとして笑顔を取り繕う。不格好に歪んだ表情を見て、澪はどうにかしてあげたいと思った。
 そこで、ぽんと手を打つ音がした。ぴんと耳を立てたあおいだ。
「……じゃーさ! おもちでも食べて、おちつこーよ!」
 そう言うと、何かを背負いこむような仕草をして、あおいは「ふしぎ」を解き放った。
 ぼふん! そこに現れたのは臼と杵の一揃いだ。澪と少年はきょとんと眼を見合わせた。
 何度か人に紛れてお餅をついた経験のあるアヤメを相方に、あおいは軽々杵を振るう。「いよっ!」「ちぃええい!」「はぁ~い」「ほいさっ!」威勢の良い掛け声をかけあって、見る間にほかほかのお餅が出来上がっていく。
「さっ、食べてたべて~。あおいとくせいのおもちなのだっ!」
「私もいい汗かいたわ~」
 澪もさっそく口をつけた。まだ温かくて、とてももちもちとしていた。頬を緩ませながらも、横目でこっそりとルゥの方を窺うと……少年はなにやら、狐ならぬ狸につままれたような表情を浮かべていた。
「不思議な味だね……?」でも、すぐに満面の笑顔になった。「でも、とっても美味しい!」
 そのままあおいとルゥは、和気藹々と言葉をかわし始めた。
 でも、どうしてだろう。彼が笑顔になったというのに、澪はなんだか、ちくちくしたものを、心のどこかに感じた。
 それ以上二人を見たくなくて、そして何より、そんな自分の気持ちにこそ戸惑って、澪はそっと顔をそむけた。
 するとアヤメが、にこにこと微笑みかけてくる。
「ね、澪はお餅、好き?」
「うん……」
「じゃあじゃあ、みんなで一緒に食べるのって、とっても素敵。そうじゃない?」
「……うん。そうよね」
 澪は重々しい表情で、頷いた。
 それはとても、大切なことだと思ったからだ。

「ま~。せっかく、こうして道があるんだし。どこに行くのかわからなくても。目的地なんて、歩いていれば、そのうち見つかるんじゃないかしら~?」
 そんなアヤメの暢気な言葉に頷いて、みんなはてくてくと森の中を歩き始めた。真っ先にあおいが飛び出していって、腕白少年のルゥもそれに続いた。
 けれど彼はそこでふと振り返ると、澪に向かって、はい、と手を差し伸べてきた。
「よかったら、だけど……捕まって、澪お姉ちゃん。
 僕、すっごく力持ちなんだよっ。うちの猫のボロンゴと力比べをしたって……時々は勝つんだから!」
 少年の、白くて柔らかい、それでも徐々に男らしさが現れ始めた手のひらを……澪は戸惑いながらも、おずおずと掴んだ。ほんのちょっぴり、どきどきしながら。
「あ、ありがと。……でもどうして?」
「お姉ちゃん、人魚でしょう? だったら、こうやって森を歩いてたら、疲れちゃうかもって思って。
 もし僕が、逆に海の中を泳いでたら、そりゃあ水浴びは好きだし最初は楽しいかもだけど、ずっとずっと泳いでたら、きっと息継ぎしたくて疲れちゃうな、って思ったんだ。それだけだよ」
「う、うう~……」
 澪はほっぺたが熟れたトマトみたいに真っ赤になるのを感じた。その仕草は、まるで壊れたロボットのようだ。
「偉いわね、ルゥ。とっても紳士ね。……ひょっとして、お父様に教わったのかしら?」
 アヤメがからかうように口をはさんだ。
「うん! お父さんが言ってたんだ。男は強くて優しくなくちゃダメだって。子供や女の人には思いやりを持って、目上の人には礼儀正しく。自分より弱いものを苛めるのは卑怯だって。みっともない言い訳はしない、痛くてぴーぴー泣いたりもしない。どんな時でもじっと我慢だって。そう教わった」
「あら、まあ」
 少年の聡明な瞳が、音もなく煌めいた。
 アヤメは急に年寄りじみた話し方になる。
「立派ねぇ。でも……それってとても大変ね?」
「うん。でも、平気だよ! いざって時は、友達がきっと助けてくれるもん!」
「そうねえ。それは間違ってないわ。誰かと出会って紡いだ縁は、きっと、貴方の中で“不思議”と“想い”になって、貴方を助けてくれる。
 それがわかっているなら、きっと大丈夫ね。挫けちゃダメよ」
 そう言って、狸の変化は魅力的な仕草でウィンクした。
 誰もついて来ないため、少し先の方で不貞腐れた表情だったあおいが、ともだちー!と叫んで飛び込んでくる。あっという間にみんなはふわふわの毛玉にもみくちゃにされてしまった。

「……ほえっ?」
 初めに気づいたのはあおいだった。
 しばらく歩いていて、遠くの方に見えてきたのは、暗い影に覆われた、薄青くひっそりと建つ古びたお城だった。道を彩る木々の葉も、どうやらお城に近づくにつれて、色あせ、枯れ木が目立っていくようだった。
「きゅ~に、秋みたいだね~。……さっきまで、秋だったんだっけ?」
「なんだか、怖いお城ね……」あおいと澪は身を寄せ合って、恐々と囁き合った。
「……お姉ちゃんたちは、あのお城に、見覚え……ある?」
「んん? たぶん、ないわね~。……それにしても、なんだか雰囲気のあるお城ねぇ」
 アヤメは二の腕を擦りながら、二人を振り返った。澪たちにも心当たりはなかった。
「……じゃあやっぱり、僕が見たお城なんだ……!」
 そう言って突然、ルゥが駆けだした。目の前にそびえる、お城の方へ。
「あ! 危ないよ、待って……!」
 反射的に、澪は少年を追いかけた。そういえば、人の姿に変化したのはもうずいぶんと久しぶりだ。うまく地面を蹴れずに、込めた力は空回りする。まるで柔らかい砂に足首までずぶずぶと埋もれながら走っているかのようだった。
 夢の中、だからだろうか?
 彼の背中に、追いつける気がぜんぜんしなかった。
「……いかにも崩れたりしちゃいそう。危ないわよ~?」
「あおいちゃん、まって~!!」
 二人に支えられながら、澪は急いで追いかけていった。

 野ざらしの城門はあちこち古びてガタガタで、丁度子供が潜り抜けられるぐらいの隙間が開いていた。
 こっちこっち! まるで吸い込まれるようにして見えなくなってしまった少年の姿を探して、澪とアヤメが視線を飛ばす。するとあおいが、ぴょんと飛び跳ねて瓦礫の影の隙間へ潜り込んでいった。秘密の入り口は狭く、手足を順番に引っ込めたりしないと突っかかってしまうぐらいだった。
 身軽な兎に続いて、やっとのことで澪も通路を抜けた。あおいは一度、本当に兎の姿に戻って、瓦礫の中を潜ったのかもしれない。ふと指先を見ると、暗闇の中でどこかに引っ掛けたのか、少し爪が欠けて赤いものが滲み、じんじんと痛んだ。
「ど、どこ行っちゃったんだろう……?」
 ひょこひょこと近づいてきて、不安そうに言いながら、あおいは「ぎゅっ」と澪の指先を包んで傷を治してくれた。水の中なら何でもできる澪とは違って、彼女は兎らしくお餅をついたり、傷を癒したり、おみくじで大吉を出すのが得意だ。澪が小声でお礼を言うと、遅れてアヤメものろのろと出てきた。何かに頭をぶつけてしまったようで、ぶつぶつと小声で文句を言っている。
「……う~ん。子供はすぐ見失ってしまうわねえ」
 城内は薄暗く、空気もどよどよと淀んでいた。厚く埃の積もったお城の中に、小さな足音がどこからか響いて聞こえてきた。
 澪はそっと、胸の中から「想い」を汲み上げた。こんなふうに、後先考えずに使っていたら、彼の前で、人の姿を保っていられなくなるかもしれない。けれど澪は悩まなかった。
「……こっち!」
 今度は飛び出した澪を先頭にして、三人はらせん階段を駆け上がった。澪の足はすぐこんがらがってしまうし、アヤメも着物の裾が重たげだった。「よくわかるわねぇ……」アヤメは感慨深げに呟いた。

 不意に冷たい風が頬を撫ぜた。急に視界が開けた。上階のテラスの向こうに、何か碑のようなところに膝をつく、ルゥの姿があった。
 彼は、追いかけてきた三人を振り返って、ふっと笑いかけた。
「……思い出したんだ。僕たち、二人で冒険に来たんだ。丁度、今のみんなみたいに」
 ルゥは懐かしそうに、碑をゆっくりと触っている。澪にはあんまり馴染みのないだった。いまいち、ぴんと来なかったが……例えるなら、彼女の住まう川に「鵜坂川」と彫られ、祀られているやつと、同じようなものなのだろうか。
 だとすれば、そこには何が書いてあるんだろうと……澪は少しだけ気になった。
「ベラ」
 囁くように、彼は澪に向かって言った。
「僕のともだち。ずっと友達だって、約束したんだ。だから僕は、ここにいるんだと思う。でも……。
 ……ねえ、澪お姉ちゃん。ベラを……助けて欲しいんだ」
「助ける、って……?」
「僕には、もう……できないんだ。忘れてしまっていたから……」
 ルゥは辛そうにぎゅっと胸を掴んだ。なんだか、その表情は、さっきよりも少しだけ大人びていて……屈んでいるからわかり辛いけれど、背丈もいつの間にか、澪と同じぐらいまで伸びている感じがした。
「ね~! ちょっと、まってよ~!!」
 そこに、どたどたと二人が追いついてきた。
 それを見た彼は、ちょっといたずらっぽく笑って、言った。
「そうだ、これも思い出した。昔、僕ら二人がやってきた時、古くなった床が、とうとう……」
「……ふえぇぇえっ!?」
「あらぁ……」
「わぁ~!?」
 うつらうつらする夢の中で「がつん」と足を踏み外したような衝撃を、澪は覚えた。
 まるで、ルゥが思い出すのを待っていたかのように、床が消え去った。今まで立っていたことの方が、嘘だったみたいに。思い思いの悲鳴を上げながら、三人はすっぽりと空いた暗闇の中へ落ちていった。澪の瞳には、辺りのすべてが、巨人がその大きな手のひらで覆い隠したみたいに暗い淵の中に沈んで、何も見えなくなるのだけがわかった。


・冷たい夢の底で。

 色彩が死んだ。
 気がついたら、そこは寒風吹きすさぶ洞窟の中だった。
 澪は震えながら辺りを見渡した。落ちてきたにしては、その衝撃は薄い。紙芝居が一枚進み、場面が切り替わったかのような唐突さだった。けれどまだ、先ほどの悲鳴の残り香が澪の脳裏にはこだましていた。
 天井にも落ちてきた穴は見当たらなかったが、そこに一枚の木の葉がひらひらと揺れている。やがて澪の目の前で、ぽんと白い煙を上げて、木の葉はアヤメの姿に変わった。
「あらぁ、ずいぶんと……寒い、わね」
「さ、ささ、さむいね、澪おねえちゃん……」
 白い息がのぼった。あおいがひしと抱き着いてきた。澪も、それをぎゅうっと抱きしめた。
「毛皮がないと辛いでしょう」そう言って、アヤメも暖めるように近づいてくれた。「澪は……というか、人魚は、かしら? 極端に寒がりなんだから」
「か、かちこちに。の。お刺身、に、なっちゃう。……ね?」
「……冗談なら、別に面白くないわね」
 アヤメは一度鼻を鳴らして、羽織を澪に貸してくれた。そのときだった。

「――こんにちはっ!」
 それは氷で出来た吐息。氷で出来た洞窟の、暗くてよく見えない、奥の方から声が聞こえた。
 ……だれなんだろう。蛍さん? トビウオさん?
 クエスチョンを浮かべる澪が見つめる先には、手のひらの上に乗っかるぐらいの背丈をした、小さな小さな妖精がいた。
 その姿は見目麗しい女の子そのもので、その背中には花びらのように薄く可憐な羽がある。澪と目が合うと、にっこりと笑いかけてきた。とても楽しそうに。
 けれど、彼女はとても冷たそうだった。
 可愛らしいまつげは寒さに凍えて、冷たく霜が降りていて、ほとんど氷で出来ていた。
 猫のようにしなやかな尻尾も、今は曲がることを忘れたかのように、かちこちに凍り付いて、洞窟の氷柱のひとつと見間違えそうだった。
 彼女は本に一冊腰かけていた。鎖で雁字搦めに縛られた、分厚くて古めかしい、とても大事なもののようだった。
 彼女は鍵を一本抱えていた。錆びついた、冷え切った、大きな鍵。それは彼女の身の丈ほどもあった。
 その妖精はゆるゆると微笑んだ。
「仲良しさんたち。どうしてここに?」
 ひょっとして……と、その凍えた唇が小さく動く。
「あんたたちも。
 忘れたくない、忘れちゃいけない大切な思い出を、仕舞いに来たんでしょ?」
 違うかな? そう言って、妖精は心から嬉しそうに笑いかけてきた。

「大切な思い出?」
 あおいはよくわからないといった様子で首を傾げた。
「みんなと遊んだ思い出は、とっても大切だよ!」
「でも、思い出って、いつかは忘れちゃうものでしょう?」
 妖精は微笑みながらまぜっかえした。
「それって、とっても寂しいこと。あんなに大切だって思ってたはずなのに、忘れて……。
 そして、なにより怖いのが、忘れていたことさえ……思い出せなくなること」
 妖精は、頬を抱え込んだ鍵へ猫のように擦りつけた。
 それは、苦しいという気持ちと、諦めと悲観がそれぞれ等しく浮かんでいて、それでもなお、失えない何かのために、自ら傷つくのを選ぶような、そんな捨て鉢さがあった。

「どうかしらね……“想い”は両手にかかえきれないほどあるけど、どこかにしまうよりは……ずっと抱えていたいわね」
 アヤメは頬に手を当てて考え込んだ。二人よりも長い時間を過ごしてきた彼女は、胸の中の思い出も、きっとたくさんあるに違いなかった。
 ベラは何だか子供がムキになるような目つきでそれをじっと聞いていたけれど、やがて、
 るる……、
 らら……、
 楽器のように鍵をかちかちと爪弾きながら、朗々と歌い始めた。

 ねんねん ねんねこ ねんころろ
 いとしい あなたの たずねびと
 きもちのすべてを うたにしても
 おもいのかけらも とどかずに

 ねんねん ねんねこ ねんころろ
 しんしん しんしん あめがふる
 みんながおうちに ひっこんで、
 わたしのこころも ちゅうぶらりん

 ……澪の目の中に、ちかちかと何かが光を放っている。
 よく見るとそれは、ベラの腕の中にある古びた鍵のものだった。
 何事かを言い合うベラとアヤメをよそに、澪はまじまじとその鍵を見つめた。
(……なんだか不思議なかんじ)
 気がつくと辺りはしんしんと白い光に覆われていた。いや、違う。澪がそっと差し伸べた手のひらに乗ったのは、まるで溶けて消えてしまいそうに儚い小さな花びらだった。
 いつの間にか澪は白い花に埋もれてしまっていた。それはちっとも重くなく、冷たくもなくて、ちょっと古びた本のような匂いがした。
 ぺらり、ぺらり。遠くからページを捲る音が聞こえた気がした。

 ……澪お姉ちゃん……。
 ベラを助けてあげて……。
(ルゥ……?)

 次の瞬間、ふわっと香ってきたのは林檎の花の香。
 それは夏。
 けぶるような生命の、匂い立つ熱気の気配があった。
 ――とまどう澪を、二つの影が通り越していく。
 そこは洞窟だった。どこまでも暗くてどよどよとしている。

 ――それでルゥってね、洞窟へ探検するって言うのに、どこからくすねてきたのか雄鶏の尾羽と今朝生んだっていう卵を抱えてきててね――ああ、本人は黙って持ってきたんじゃなくって、無理やり持たされたんだって言ってたケド。大した違いじゃないわよね? ――そんならいっそのこと、ニワトリごと持ってきたらいいじゃない、万一お腹が空いた時のためにって。
 それで、二人で奥へ――。

 ……ふと澪が瞬きをすると、そこはもう、先ほどの雪景色のなかだった。
 いつの間にか、ベラたちは雪合戦で遊んでいるみたいだった。いくつかの雪の壁が三手に分かれて並んでいて、それぞれの奥には旗が立てられている。取られたら負けらしい。
 澪に気づいたあおいが、早速雪玉を放り投げて泣きついてくる。
「うわーん! みおちゃん、ふたりともひどいんだよー! わたしばっかり狙うんだもん!!」
「あはは、ごめんごめん、あおいの弾幕パターンは個性的で、攻略しがいがあって。ついつい率先して狙っちゃったわ」
 雪玉を下に抱えてベラが笑いながら飛んできた。
「あら。私のは?」
「うーん。アヤメってよく嘘つきって言われるでしょ。あおいのが好き」
「心外ね~」
 雪の塹壕線を小さな影がじぐざぐと走り抜けたと思うと、最後の壁の後ろから、アヤメがのっそりと出てきた。
 それを見て、澪はにっこりと微笑んだ。
「どうしたのよ?」ベラが疑問を浮かべた。それに「ううん」と首を振って、澪は胸中で、こっそりと安心した。
 澪には、前後の因果関係はよくわからないけれど、それでも、ルゥがベラのことをとても大切に思っていて、彼女も同じように思っているのだとわかって、心から嬉しく思っていた。
 安心したら、なんだか澪はお腹が空いてきた……。

 りんごや、オレンジ。いちごに、グレープ。あるいは、夕暮れや、朝日のきらきらした光を、少しずつ少しずつ集めて、混ぜ合わせたみたいに。
 洞窟は、まるで色とりどりのシャーベットをシェイクして、大きなトンネルにしたみたいだった。
(ミントはないのかな……?)
 寒さはひとまず脇に置いて、澪はのんきにそんなことを思った。
 一面の冬の景色の中で、“さむがり”な人魚の鵜坂川の澪は白い息を吐いていた。
 傷一つない煌めく鱗が、ひらひら音もなく舞い散る雪のかけらを背景に、まぶしく明滅していた。それはまるで、かくも不思議な彼女たちの夢の旅路の、その終わりが近いことを教えているようだった。
 海の中で始まった、小さな小さな波がやがて、抗いようもない大きな大きな波濤となるように。
 夢の世界の支配者だと名乗っていた、あの獏の変化の少女の言葉を思い出した。
 ――夢の深いところにある夢は、本人さえも知らないところで、無意識で、膨れ上がって、手に負えなくなってしまうのですよ。
 もしそれを、その子が自分を認められるように、手を取ってあげられる方がいたとしたら――
 獏はそこまで言って、アヤメに軽く頷きかけた。あおいをじっと見つめた。何かを期待するように。
「……でも、わたし。川で育ったんだから。
 海なんて、見たこともないんだケド……」
 澪は瞳をぱちぱちとさせて、ちょっと困ったようにそう呟いた。

 言い争う変化たちをよそに、澪はそわそわと足元に目を向けた。
 いつの間にか雪は止んでいた。嵐が遠のくと、灯りもないのに洞窟は意外なほど明るく、透き通って広々としていた。雪に吸い込まれてしまうのか、それとも単に夢の中だからなのか、音はなく、しんと静寂が降りている。
 ふわりと積もった新雪を、そっと……手のひらにすくいとってみる。
(かき氷……)
 それは真っ白くて、ふわふわで、とても綺麗だった。ケーキに振りかけるお砂糖みたいだと思った。味は……きっと甘いのだろう。一度そんなふうに考えてしまうと、俄然そうとしか見えなくなってきて、仕方がなかった。すくいとった手のひらの雪が、ほらほら、ひとつ試してみませんか? ぼくらはとっても甘いですよ、とおいでおいでしているみたいだった。
(ゆ、夢の中なら)
(……雪も甘かったりするのかな……?)
 澪はだんだんと誘惑に負けて、顔を近づけていって、
 ぱくり、と噛りついた。
「……ホットケーキだ~!!」

 変化たちが気がついた時には、呑気で幸せそうな表情の澪のまわりに、色とりどりの氷菓が居並んで、きらきらと、蠱惑的に輝いていた。高く積まれたシロップの風味は見ているだけで目を楽しませたし、どこからともなくザクザクと積みあがる飴玉は、水底に沈んだ宝箱の中の宝石みたいだった。
 甘党の人魚のちょっとした「イマジネーション」が、今や大波となって、辺りを押し流していくのだった。
「ちょ、ちょっと……! あんまり変なマネ、しないでよー!」
 妖精は大慌てで飛び上がると、お菓子の波をひょいと乗り越えて震源に向かった。
「……っくしゅん!」
 途中で大きなくしゃみが出て、小さな体はかたわらのヌガーの山に頭から突っ込んでしまう。
「……こ、この~……!」ベラはちょこんと舌を突き出して、悪戯を面白がるような表情になった。もう一度くしゃみをして、今度はまっすぐ人魚のところまで飛んでいく。
 その時には、ベラの凍てつく縛めは、あらかた溶けてしまっていた。くしゃみの拍子に剥がれ落ちてしまっていた。
「雪玉の中にあんこがつまってれば、おもちみたいでおいしーかなぁ?」
 あおいが何気なく雪玉を割ると、本当に中から餡子が出てきて、びっくりした彼女はひっくり返った。
「うーん……。雪を食べるのは」
 そう言ってアヤメは、ひょいと着物の裾を持ち上げると、足元に流れてくるお菓子の波を何とも言えない渋い表情で避けた。

「本当に雪が甘いの~。ふわふわのホットケーキみたいで!」
 心底楽しそうに笑う澪へ、その肩に降り立った妖精もまた、悪戯好きのする表情で笑いかけた。
「ふうん。そんなこと言ってる、澪がほんとーにホットケーキになっちゃったら、面白いかもね。どう?」
「ええー?」危機感のないにへら声。「私がホットケーキになっちゃったら……泳げなくなっちゃうわ!」
「そんなこと言ったって! ほら、もう端っこから、いい匂いがし始めてるんだから!」
「ほ、ほんとう?」
 澪はあおいたちの方へ振り返った。せかせかと袖口なんかを確かめている。
「し、塩くさく……なくなったのかな?」
「ほんと、ほんとよ!」頷く妖精の口元は笑っていた。
「ほら……尾っぽの先なんて、もう、ふかふかのスポンジだ!」
 見れば確かに、ベラの言葉通り、澪の尾の先は、いい具合に焼き目のついた、美味しそうな生地になっていた。機を見てすかさず杵を持ち上げ、お餅をぺたぺた作り上げていたあおいも、これを見るとお餅を放り出して駆け寄ってくる。
「大変! あおいちゃん、私、たい焼きになっちゃう~!」
「わー! 澪お姉ちゃんってば、ぎゅーってすると甘い香りがして、ぽかぽかで、なんだかとっても美味しそう!」
「きゃー!」

「一体全体、なにがどうなっているのやら」
「んふふ」
 アヤメが、目にちょっと力を込めて悪戯妖精を見つめると、ベラは笑いながら、手の中を見て見ろ、みたいな仕草をしてみせた。
 いつの間にか、その手の中には銀色に光る如雨露が握られていて、口からはお水の代わりに、とろとろと金色に光る蜂蜜が零れてきていた。
「んふふ。ホットケーキには、やっぱりハチミツじゃない? あっ……でも、メープルシロップのがよかったかな?」
 そう言うが早いか、彼女の手には同じく妖精サイズの如雨露がある。
「あら不思議」アヤメは短くこたえた。
「やれやれね。期待には、お応えしないとダメかしら」
 人魚の澪(ふわふわホットケーキ)に蜂蜜を垂らしていくと、澪はくすぐったそうに「きゃー!」と叫んだ。いまや彼女は、おやつに出しても恥ずかしくない立派なホットケーキと化していた。尾から零れた蜂蜜は、どんどんと水かさを増して止まることなく、氷の上を這い、洞窟の壁をどんどんと浸していった。
「シロップ漬けになっちゃうよぉ……」兎のあおいは、どんな表情をすればいいのか戸惑いながら、澪の尻尾に取りすがった。
「澪? あなた、ふわっふわで甘くって、とっても美味しそうよ!」
「ええ? どうしましょう……」
 鵜坂川の澪は至極真面目な表情で困ったようにいった。
「でもそれって、結局、わたしは食べられないのよね……?」

 金色の甘い海はあっという間に洞窟を飲み込んでしまい、あらゆるものが蜂蜜の中に溺れた。永遠に溶けないかと思われた分厚い雪がすべて海面に没してしまうと、洞窟は、一面宝石のようにきらきらした色とりどりの、輝きに満ちた光の巣窟となった。壁に蜘蛛の巣のようなひび割れが幾万も走ると、すぐにそれは幾億もの欠片に砕けてとぷんと海に落っこちてくる。
 糖度の高い海を泳ぐのはさすがに疲れそうだったし、頭の天辺からつま先までべたべたになるのはみんな嫌だったので、いつの間にか、ホットケーキになってしまった澪の尻尾(ふんわり焼きあがった彼女は、なんだか目方も増えていたので)、丁度香ばしそうに焦げ目のついた辺りに、黙々と腰を下ろした。
「……ねえ、いま、何時かなぁ」
 そんな澪の肩のあたりに寝そべって、片手を海に浸しながら、ベラが声を上げた。
「そういえば、いつなんだろー?」
「金子を数えてるわけじゃないけど……」
「もうそろそろ、朝になっちゃうのかな~?」
 三人が口々に呟くと、しばらくだんまりしていた妖精は、やがて「……ちぇっ」と悔しそうに言った。
「澪がそんなこと言うから。だんだん、明るくなってきちゃった」
 ぷかぷかと浮かぶ、水平線の向こう側で、まぶしい明かりが徐々に徐々に昇り始めていた。

「夜が過ぎれば……もう朝ね。楽しかった夢もおしまいなのね」
「もう、お空で泳げないのね~……」澪はちょっと残念そうに肩を落とした。
「あら。やっぱりちょっと楽しかったんじゃない」
「……ちょっとだけね」
「夢なんて、そんなものよ」
 ベラはどこか吹っ切れたようにさばさばといった。だけど、それでもどこか寂し気だった。
「また見たらいいんだよ~!」
 あおいが溌溂と頷く。そう言われて、ベラはちょっと皮肉っぽく笑った。
「ふううん。あおいって、そ~ゆ~こと、言うんだ。忘れちゃったら、どうするのよ?」

 忘れないよ! ともだちだもん!
 そしたら、またお友達になればいいのよ~!
 もう一度、はじめまして、ね?
 間髪入れずに三人から、押し寄せるように言葉が返ってくる。
 ベラはちょっとだけびっくりしたようだった。
「……あっきれた!」
 やがて、我慢できなくなったみたいに、両手を口に当ててくすくすと笑いだしてしまう。
「そっかぁ……。
 うーん。そうね。そうなの……かもね。
 みんな、大人になったら、一緒になって遊んだことなんて、忘れてしまうけれど。
 ……そうね、それじゃあ、特別に。
 もし忘れてしまっていても、また友達になってあげるわ」
 腰に手を当てて、ぬけぬけとどこか偉そうに、気まぐれで暢気な妖精らしく、ベラは三人に言った。
「友達になれたんだよ!何度でも友達になれるよ!」
「ふふ、私は大人にはならないわ。あと数十年は少女のつもりよ?」
「私も私も~!人魚は長生きなのよ~?」

「ふわぁぁ……」
 やがて、昇ってくる朝日をいっぱいに浴びながら、ベラは花の蕾が咲くように大きく、気怠い子猫のように優雅にあくびをこぼした。
「安心したら、なんだか眠たくなってきちゃった。
 しばらく、徹夜だったんだもの」
 そう言ってベラは、雪の舞うようにふよふよと漂って、とすんと軽く、澪の肩に落っこちてきた。
 その輪郭が、だんだんと薄く、風に吹かれる蝋燭の火のように揺れていく。
「おやすみなさい、ベラちゃん」
 ちかちかと瞬く妖精を、澪は両手で優しく包み込んだ。

 ……そうそう、わたし、思い出したわ。
 大人になっても、見えなくなっても、ずっと友達よって。
 ……そう、約束したんだもんね。

 ベラは目を瞑ったまま、小さくくすくすと悪戯っぽく笑った。
 その表情は、なんだか……
 夢の中で、少しだけ一緒にいた、あの小さな男の子とそっくりだった。

 ううん……。どっち、でも……いいのかもね……。
 だって……。
 忘れたって……ともだちは、ともだち……だもんね……。

 やがてベラは、澪の手の中で、日差しに雪が溶けて消えてしまうように、そっと色あせて、見えなくなった。
 代わりにそこには、チリン、という澄んだ音と共に、古びた鍵が残されていた。

 ※
「チェリーベリー、マリーベリー、ハッピーベリー・パイ。
 でもいちばんいいのは、古臭いラブベリー・パイ。
 ……お餅は良いですねえ。夢の中なら、つまらせる心配もありませんし」
 やがてどこからか、調子っぱずれな歌声がした。
 朝日の中で、辺りにはちらちらと白い雪が舞っている。それはちかちかと目にまぶしくて、まるで、世界が端から少しずつほどけているかのように、いっぱいに舞い上がって流れていく。
 まぶしいぐらいの夢の風景の、端っこをジッパーで開いて現れたのは、ずいぶん久しぶりな、夢の中の支配者を名乗る、獏の少女だった。いつの間にか、ジッパーの出口から海は全部流れていってしまって、甘い香りのする氷の上を、羊たちがとことこと歩いてくる。
「もう、みなさん。こんなところにいたんですか? 探したんですよ。言ったじゃないですか、ちょっと探し物を手伝って欲しいんです、って……」
「それって、なんだかつまらないお餅ね。退屈じゃない?」
「まったくもって、その通り。ま、所詮は夢の中ですからね」
 獏はアヤメにひらひらと手を振った。それを見て、狸の変化は小さくため息をついた。
「あー、いたいた、オライリーちゃん。勝手にいなくなっちゃ、ダメじゃない。……迷子?」
 あおいのその言葉を聞いて、獏の少女はがくっとその場に崩れた。
「い、いや、迷子になっていたのは皆さんの方なんですケド……」
「そうよ? 迷子が自分は迷子っていうわけないじゃない。もちろん、私たちも迷子じゃないわ」
「迷子さんでしたか~。見つかってよかったですね~」
「そ、そうなのかな……そうなのかも……」

 獏の少女のかたわらで、動物の方の獏が一匹、ふごふごと何かを探して歩き回っていた。
 ふごふごふご。短い脚を振り回しているうちに、何かに気づいて盛んに興味を示した。
 と、獏が鼻先を持ち上げて、何かを掲げた。それは銀色に光っている。
 少女はそれを拾い上げた。
「およ? あー、よかったよかった。探してたんですよ。こんなところにあったんですね。見つける手間が省けました」
「迷子の次は失くし物?」
「そんなところです。いやぁ、楽できてラッキー……あ、こらこら」
 少女は手に持った鍵を、俺が見つけたんだぞとばかりにふごごっと獏に吸い込まれかけている。
「ふーん。オライリーちゃんも大変なんだね~。……ぎゅーっ!」
「ありがとうございます」
 ぎゅっと抱きすくめて下から見上げる兎の変化に、獏はなんともいえない味のある表情を浮かべた。

「さてさて。みなさんお揃いならば、都合がよろしいかと。
 そろそろ、夢から覚める時間ですよ」
 獏がぱんぱんと両手を叩いて、何かを促すように澪たちを見据えた。
「一説によれば、曰く。夢の出会いは嘘っぱち。
 “これから出会う”ことへの予行演習」
 三人の顔を順番に見渡して、ふむふむと一人頷いた。
「ま。どうせ頑張って起きていようとしても。朝になってしまえば、すっかり忘れてしまっていますよ。
 そんな、くよくよ迷うことなんてありません」
「なるようにしかならないってことね。縁があれば、また」
 アヤメが挨拶するようにちょっと手をあげた。
「またみんなであそぼーね!」
 あおいもぶんぶんと手を振る。
「ところで、そろそろお名前を教えてくれますか?」
「はいはい。それでは……え? 私の名前ですか?」
 夢の世界の住人は、とろんと眠たげな半眼で何かを言いかけたが、言葉を詰まらせると、ちょっとびっくりしたように聞き返した。
 口を閉じてしげしげと澪を見返す。
 ややあってから、彼女は小さく笑った。
「はいはい。私、オライリーと申します。
 どうぞ、お見知りおきください。朝になるまで……」
 そう言って、オライリーが大仰に一礼したのを皮切りに、あたりが一気に明るさを増して、どんどんと視界が真っ白になっていった。まるで一面、暖かな花吹雪の中にいるようだった。
 ……れでは、…なさん……さようなら……。
 そんな声が、聞こえたような聞こえなかったような。
 そんな調子で、三人はやがて意識を手放した。


・エピローグ

 夢の支配者、獏のオライリーは、朝になったら全てを忘れる、というようなことを言っていたが。
 もちろん澪は、何一つ忘れたりなんかしていなかったので、「みずかがみ」を使うことに決めた。
 お昼の鵜坂川は天気も良く、静かで流れも穏やかだった。澪は水面を浚うようにゆっくりと指を動かしながら、そっと力を込めた。きらきらした「想い」が、コーヒーに混ざるミルクのように流れにぼんやり浮かび上がる。
 白魚の指でティースプーンのように水面をかき混ぜると、やがて夜空を思わせる柔らかい漆黒が浮かび上がってきた。

 ――私を呼ぶのは誰ですか。
 その時不思議なことが起こった。
 ゆらゆらと揺れる水面の向こう側から、唇をとがらせたバクのマレビトが浮かび上がったのだ。インターホン越しに見る輪郭のように、鼻のあたりに焦点が当たってしまっていて、なんだかどやどやと偉そうな表情だった。
「うわっまぶしいですね……」
「あ~、オライリーちゃん! げんき~?」
「その声はわが友、澪さんではないですか」
 バクがすっと体をひくと、ようやく水面にきちんと半身が映る。
「あはは、すみません。それで、どうかしましたか?
 よく眠れないなら、オススメはホットココアです。お砂糖をたっぷり入れて……
 それか、最近新発売のこのスイート夢枕を使われてもOKです。もうぴたっと快眠をお約束しますよ」
「ベラちゃんの様子が気になったの。今頃どうしてるかな~って」
 獏の長口上を遮って、澪がぽつりと零した。「……あと、ルゥくんのことも」
「ふむ」
 獏は水面に肘をついて身を乗り出してきた。いや違う、一瞬そんなふうに見えただけで、澪がよく目を凝らすと、あくまで彼女の姿は水面にできた画面の中にきっちり収まっている。単なる気のせいだ。
 オライリーが画面の外を振り向いた。
「……あっ、ちょっと待ってください」
 すっ、とオライリーさんの顔と声が遠くなる。そのまま、少し遠くなった声で、誰かと言い争う気配がした。
「……いや、普通に出て、お話すればいいじゃないですか。
 ……え? まだちょっと恥ずかしい? なにをそんな……」
「オライリーさ~ん?」
 澪の呼びかけに、にゅっと顔だけ電話に戻ってくる。
「すみません、まだ会えないんだそうで……アイタッ。ちょ、ちょっと、尻尾は掴まないで下さいよ~」

 ……? 事情をよくつかめていない澪に、獏は「たはは~」と小さく笑った。
「えーと、とにかく、元気でやってはいるようですよ。はい。そりゃあもう」
「そっか。元気ならよかった~! 徹夜してたって言ってたから、心配だったの」
 獏は味のある表情を浮かべた。

「……それと、ですね。うーん」
 ひとつ息をいれ、オライリーは難しい顔つきで、手元の手帳をぺらぺらと捲った。
「その子なんですけれど、なんというか……。
 そもそも、ベラさんと彼がお友達だった時というのが、相当昔だったらしいですね」
 そこまで言うと、聞いている澪の様子を伺うように、ちらっと横目をくれた。
「子供の頃の彼に合うのは、ちょっと相当難しいですね。ザンネンですが」
「そう……。元気ならいいの! ありがとう、オライリーさん~」
「……いえいえ。これも、お仕事みたいなものですからね」
 しばらくじっと視線をかわしたあと、獏は少しだけ、微笑を浮かべた。
「ま、それこそ、“夢のような出会い”だったとでも……思ってみてはいかがですか」
 それから二言三言だけ言葉をかわして、獏は水面から姿を消した。
「またいつでも呼んでください。お友達ですからね……」
 声がだんだんと薄れて消えていく。
 やがて川は、元の平穏を取り戻した。

 ※
 彼女の初恋は終わってしまって、
 川の向こうに兎が寝ている。
 彼女の初恋は終わってしまって、
 街並みを人化した狸が歩いていく。

 彼女の初恋は終わってしまって、
 世界はそれでも全然変わらない。
 水の音がちゃぷちゃぷ転がって、
 暖かな日差しが頬を撫でる音に、
 何度もまばたきをしてみたけど、
 胸の中はまるで晴れる気配がしなかった。

 彼女の初恋は終わってしまって、
 声は出ず、返事もなく、
 全ては遠く、遠くなっていって、
 それでも、
 彼女はなにかになっていく。

 わたしの初恋は終わってしまったけれど――
 それでも彼が、この空の下で、どうか幸福でいてほしいと、
 鵜坂川の澪は声もなく祈った。

(2019年11月某日)
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