肉祭ポメタロスさんの日記 「おめでとう」

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肉祭ポメタロス
肉祭ポメタロス日記
2017/05/18 20:02[web全体で公開]
😶 おめでとう
 今日は数学のテストだった。
 4年で学ぶ勉強を1年でやるという狂ったこの学科は、授業が朝から晩まであり、その全てが必修単位である。落としたら追試、追試の次はなく、毎年何人か去っていく。
 だからこそ私は、人生で最大限に勉強をした。国家資格を取得した時よりも死ぬ気でやった。数学ばかりやって、脳みそが半端溶けているような心地だった。

 これほどまでに数学が私に負荷をかけるのには、理由がある。私は数学という存在を信じていない。
 公式がある、言いたいことも分かる、しかし何故そうなるのかが分からない。問題を解きながら、解けるのに解けている自分が信じられない瞬間が何度も訪れる。間違えたとき、何を持って間違えたのか理解しがたい瞬間がある。
 sinθは何がしたいのか、虚数は何で虚数なのか、デシベルは何で便利そうな顔をするのか。

 エジソンだったかアインシュタインだったか。後に天才と呼ばれる少年は、1という数字が理解できなかった。彼は就学数日で初めて出会った1+1=2が分からず、不登校になった。
 何が1なのか、何を持って2なのか理解できなかったのだ。りんごを2つ持って1+1を説明する教師に、疑問を伝えても理解してもらえず、彼は皆が1を噛み砕いて当然と扱うことに劣等感を抱いた。
 その後、彼は熱心な母親の教育によって1という概念を理解した。天才を語るによく多用されるエピソード。これが天才のエピソードなのだという。

 そんなことはない。このエピソードは天才のそれではない。天才も、凡人も、等しく数学は全ての人をまやかす。

 高校の時だった。私は数学が理解できなかった。√やsinがしたり顔と出てきて、当たり前のようにいた。教科書と呼ばれる書籍に張り付いた、ただのインクのシミのくせに、まるで実在するかのように振る舞う彼らに苛立ちを覚えた。丸暗記しろという。意味がわからなかった
。
 黒板の前で立ち尽くす私を、ポマードで髪を後ろに流した老年の数学教師は、鼻で笑った。
 その横にはヤンキーがいた。数学の得意なヤンキーだ。金色に近い長い茶髪にピアス、極限まで短いスカートに、ルーズソックスという餅のような靴下を履いていた。
 一見真面目に見えがちな私とは真逆の姿を持った彼女は、スラスラ数学を解いた。とても誇らしそうに見えた。数学を心から信頼しているように思えた。
「ここはこうするといーよ」と笑う彼女の中に、数学は確かに存在した。

 彼女は数学を重視する国立理系クラスに上がり、私は数学がダメだったので私立理系クラスになった。
 3年生になろうとする時期だったと思う。別のクラスで殆ど話さなくなった彼女と、廊下で久しぶりに目があった。
 彼女は、開口一番、こう言った。

「にく、あたしさ、数学ダメになっちゃった」

 数学は人を裏切る。ある段階で、必ず人を裏切る。それが早いか遅いか、それだけのことで、彼らは高度になればなるほど実在性に乏しくなる。あらゆる記号や単語に置き換えられ、組み立てられ、複雑化し、人の理解の範疇を離れてゆく。

 そもそも、果たして1は、本当に1だったのか。
 言語というものに1のような何かを当てはめて、1のように用いるそれは本当に1なのか。
 水素水のようなものじゃないか。みんな学んでいるから効果を嘲笑うが、本当に水素を理解しているのか? 高校の化学はインクのシミではなかったか? 他人を嘲るに見合うほどの信用性が本当にあったか? ビンから僅かに出てくる水素に火を近づけて爆発させ、帰化しやすく不安定と学んだが、果たして本当に学んだものは水素だったか?
 ただ信用してるフリをしてるだけではないのか。

 天動説が地動説になり神が死んだとき、科学が神のように世界を満たした。果たして今、平然と世界にあり、神のように振る舞う、科学や、数学や、1が、これから先死なないと本当に言えるのか。
 少なくとも私は、信用していない。

 だから必修単位じゃなくても良いじゃない…。


 兎にも角にも憎き数学が一段落。恐らく追試なので、ただの小康状態で再燃待ちではあるが、今はただ、頭をクトゥルフで埋めたい。満たしたい。弾けたい!

 クトゥルフるるぶが届いたので、これから早速読み込みます。早くセッションして、数学漬けのやばいSAN値を癒やすんだ…。
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レスポンス

しんくろー
しんくろー肉祭ポメタロス
2017/05/18 20:35[web全体で公開]
> 日記:おめでとう
私見ですが、数学は人を裏切りません。奴らは人を見てもいないのですから。裏切るという意識はないのです。
それこそクトゥルフの邪神のように、ただ、宇宙的”理”としてそこにあって、
人はそれを必死こいて理解しようとするのだけれども、奴らの本性を垣間見るに従って結果振り回されてしまうのです。
一流の数学者でも入門者でも、ちょっと数学をわかったような気になったところで、
正体不明を知ってしまい、今までに積み上げたものの無力さに嘆き、正気を削られるわけであります。

「連続体仮説」で有名なカントールという数学者が居ました。彼は”無限”について取り組み続け、
晩年には精神を病んで病院でなくなりました。「分かるけれども、信じない」という名言を残しています。

数学の歴史とは、如何に数学という魔を現実と切り離すかの歴史だといっても過言ではありません。
昔の人は言いました。「万物は数である。この世の全ては数で説明できる。」
今の人は言います。「数学とは記号学であって、現実世界との関連を考えるのはまた別の仕事です。」
これは、心を邪神にやられないようにするための知恵なのかもしれません。

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