『アナタノナマエハ?』 南 明美 17歳女子高生 —11月24日20時32分— 「まずい、大分遅くなった…」 どういう訳かクラス委員の手伝いを押し付けられた上、それが下校時刻ぎりぎりまで終わらない量だなんて聞いていなかった。 「明日、改めて文句言ってやるから覚えときなさいよ…」 門限はとっくに過ぎている。ちゃんとした理由があるとはいえ、さすがに遅すぎる。説教は覚悟すべきだろう。 「とりあえず帰ったら宿題と明日の準備を…」 帰宅してからの計画を考えながら、早足でぽつりぽつりと街灯が照らす夜道を歩く。 歩く。 歩く。 「ねえ」 突然声が聞こえた。 「えっ?」 驚き、身構える。声は正面からしたはず。が。 「…誰も…いない…?」 目の前にあるのは、チカチカと瞬く街灯に照らされた道。人どころか、ネズミ一匹いる気配はない。 「思ってるより疲れてるのかな、私…」 そう結論づけて、また歩き始める。そして街灯を一つ通り過ぎ… 「ねえ」 「っ!!」 今度は、たしかに、聞こえた。 (なんで…?) 子供のような、呼びかける声が。 (こんなこと、ありえない…!) 足がすくんで動けない。本能が逃げろと警告しているのにピクリとも動かせない。 (嘘だ…嘘だ…) 心臓が痛い。破裂しそうなほど強く鼓動を刻んでいる。 (嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘、嘘、うそ、うそ、うそ—) 汗が頬を伝う。寒気しか感じないのに。気温のせいだけじゃない。 「ねえ」 三度、聞こえた。 足が、勝手に動き出す。 振り返ろうと。 見たくないのに。 知りたくないのに。 ゆっくりと。 振り向いて、しまった… 「……!!」 そこには、子供ぐらいの大きさの、うっすらとした黒いもやが揺らめいていた。暗い夜道に紛れ、さっきまで視界にとらえられなかったものが、今、手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる。 怖い。怖い。ただのもやのはずなのに、どうしようもなく、怖い。 そして、『もや』がまた声を出す。今度は、ただの呼びかけでなく、意味を持った文章として、鼓膜に、脳に、認識される。 「『いい子のいい子の私ちゃん、アナタの名前はなんですか?』」 パニック状態の脳で、少しでも冷静に受け止めようとする。聞かれたのは、名前。『私』の、名前。答えてはいけない。答えなくては。口を開いてはいけない。自分の口で伝えなくては。 ぐちゃぐちゃの頭が情報を整理しきる前に、恐怖に負けた私の口が…… 「わ……たしは…」 (駄目……) 「南……」 (やめて…止まって…) 「明美…」 『私』の名前を、言った。言ってしまった。 それを聞いたもやが私に再び問いかける。 「『私の名前は南明美、じゃあアナタの名前はなんですか?』」 「え…?わ、私の名前は…名…前…は……」 名前。名前?私の?私のだ。そう、私の名前。 「なんで…なんで…」 ずっと一緒に過ごしてきた、私の名前。両親がつけてくれた、大切な。 「どうして…」 それなのに。 「思い出せない…⁉」 出てこない。一文字たりとも。まるで、記憶から抜き取られたみたいに。 『もや』が、姿を変える。色が濃くなり、大きくなり、はっきりとした人の輪郭をとっていく。次第に色がついていく。れっきとした人間の姿に。17歳ぐらいの、女の子。セーラー服を着た、女子高生。その姿は。 「わ……たし………⁉」 何度も鏡で見てきた『私』の顔。『私』の姿。『私』の持ち物まで、何もかも。『私』そのものだった。 さっき聞いた問いかけが、また、私の脳を侵す。 「『私の名前は南明美、アナタの名前はなんですか?』」 「わ……私……私は……」 わからない。 「私の………名前は………!」 ふと、足元を見る。 「えっ⁉」 体が黒く変わっていく。徐々に質量を失っていくのを、直感的に理解した。 「なんで⁉私に何をしたの⁉」 消えていく。足が。膝が。はっとして両手を見れば、すでに手首の先は消えていた。 「どうして⁉嫌、いや、止まって!!止まってよ!!」 止まらない。徐々に、徐々に、体が『もや』になっていく 「誰か、助けて!!お父さん、お母さん!!……お……とう……さん……?」 ようやく気付いた。消えていくのが、体だけではないことに。 「誰……?おとうさんって誰⁉おかあさんって何⁉わからない、わからない!!どうして⁉」 記憶にもやがかかったように、否、『もや』になって消えていくように。 「どうして、なにもおもいだせないの⁉」 蹲るための脚も、頭を抱える腕もとうに『もや』になってしまった。何もかも『奪われた』。体も、心も、記憶も……。 「いや……」 『ナナシ』に名前を求められたら、絶対に与えてはいけない。 「たすけて……」 名前は、その人そのものだから。 「だれでもいい……」 名前を奪われれば、全てを奪われるから。 「だれか……!」 名前を奪われたものは、『ナナシ』になってしまうから。 「……………なまえ………………」 『人間』だった頃の心も自我も、奪われて。 「わたしに……なまえを……」 ただひたすらに、『名前』を求めるようになるから。 「ねえ」 『ナナシ』は、自分の名前を求めて。 「ねえ」 問いかけるようになる。 「『いい子のいい子の私ちゃん、アナタの名前はなんですか?』」 次の『名前』を求めて。
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『アナタノナマエハ?』
南 明美
17歳女子高生
—11月24日20時32分—
「まずい、大分遅くなった…」
どういう訳かクラス委員の手伝いを押し付けられた上、それが下校時刻ぎりぎりまで終わらない量だなんて聞いていなかった。
「明日、改めて文句言ってやるから覚えときなさいよ…」
門限はとっくに過ぎている。ちゃんとした理由があるとはいえ、さすがに遅すぎる。説教は覚悟すべきだろう。
「とりあえず帰ったら宿題と明日の準備を…」
帰宅してからの計画を考えながら、早足でぽつりぽつりと街灯が照らす夜道を歩く。
歩く。
歩く。
「ねえ」
突然声が聞こえた。
「えっ?」
驚き、身構える。声は正面からしたはず。が。
「…誰も…いない…?」
目の前にあるのは、チカチカと瞬く街灯に照らされた道。人どころか、ネズミ一匹いる気配はない。
「思ってるより疲れてるのかな、私…」
そう結論づけて、また歩き始める。そして街灯を一つ通り過ぎ…
「ねえ」
「っ!!」
今度は、たしかに、聞こえた。
(なんで…?)
子供のような、呼びかける声が。
(こんなこと、ありえない…!)
足がすくんで動けない。本能が逃げろと警告しているのにピクリとも動かせない。
(嘘だ…嘘だ…)
心臓が痛い。破裂しそうなほど強く鼓動を刻んでいる。
(嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘、嘘、うそ、うそ、うそ—)
汗が頬を伝う。寒気しか感じないのに。気温のせいだけじゃない。
「ねえ」
三度、聞こえた。
足が、勝手に動き出す。
振り返ろうと。
見たくないのに。
知りたくないのに。
ゆっくりと。
振り向いて、しまった…
「……!!」
そこには、子供ぐらいの大きさの、うっすらとした黒いもやが揺らめいていた。暗い夜道に紛れ、さっきまで視界にとらえられなかったものが、今、手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる。
怖い。怖い。ただのもやのはずなのに、どうしようもなく、怖い。
そして、『もや』がまた声を出す。今度は、ただの呼びかけでなく、意味を持った文章として、鼓膜に、脳に、認識される。
「『いい子のいい子の私ちゃん、アナタの名前はなんですか?』」
パニック状態の脳で、少しでも冷静に受け止めようとする。聞かれたのは、名前。『私』の、名前。答えてはいけない。答えなくては。口を開いてはいけない。自分の口で伝えなくては。
ぐちゃぐちゃの頭が情報を整理しきる前に、恐怖に負けた私の口が……
「わ……たしは…」
(駄目……)
「南……」
(やめて…止まって…)
「明美…」
『私』の名前を、言った。言ってしまった。
それを聞いたもやが私に再び問いかける。
「『私の名前は南明美、じゃあアナタの名前はなんですか?』」
「え…?わ、私の名前は…名…前…は……」
名前。名前?私の?私のだ。そう、私の名前。
「なんで…なんで…」
ずっと一緒に過ごしてきた、私の名前。両親がつけてくれた、大切な。
「どうして…」
それなのに。
「思い出せない…⁉」
出てこない。一文字たりとも。まるで、記憶から抜き取られたみたいに。
『もや』が、姿を変える。色が濃くなり、大きくなり、はっきりとした人の輪郭をとっていく。次第に色がついていく。れっきとした人間の姿に。17歳ぐらいの、女の子。セーラー服を着た、女子高生。その姿は。
「わ……たし………⁉」
何度も鏡で見てきた『私』の顔。『私』の姿。『私』の持ち物まで、何もかも。『私』そのものだった。
さっき聞いた問いかけが、また、私の脳を侵す。
「『私の名前は南明美、アナタの名前はなんですか?』」
「わ……私……私は……」
わからない。
「私の………名前は………!」
ふと、足元を見る。
「えっ⁉」
体が黒く変わっていく。徐々に質量を失っていくのを、直感的に理解した。
「なんで⁉私に何をしたの⁉」
消えていく。足が。膝が。はっとして両手を見れば、すでに手首の先は消えていた。
「どうして⁉嫌、いや、止まって!!止まってよ!!」
止まらない。徐々に、徐々に、体が『もや』になっていく
「誰か、助けて!!お父さん、お母さん!!……お……とう……さん……?」
ようやく気付いた。消えていくのが、体だけではないことに。
「誰……?おとうさんって誰⁉おかあさんって何⁉わからない、わからない!!どうして⁉」
記憶にもやがかかったように、否、『もや』になって消えていくように。
「どうして、なにもおもいだせないの⁉」
蹲るための脚も、頭を抱える腕もとうに『もや』になってしまった。何もかも『奪われた』。体も、心も、記憶も……。
「いや……」
『ナナシ』に名前を求められたら、絶対に与えてはいけない。
「たすけて……」
名前は、その人そのものだから。
「だれでもいい……」
名前を奪われれば、全てを奪われるから。
「だれか……!」
名前を奪われたものは、『ナナシ』になってしまうから。
「……………なまえ………………」
『人間』だった頃の心も自我も、奪われて。
「わたしに……なまえを……」
ただひたすらに、『名前』を求めるようになるから。
「ねえ」
『ナナシ』は、自分の名前を求めて。
「ねえ」
問いかけるようになる。
「『いい子のいい子の私ちゃん、アナタの名前はなんですか?』」
次の『名前』を求めて。