ポール・ブリッツさんの日記 「美しく散ること」

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ポール・ブリッツ
ポール・ブリッツ日記
2019/11/21 20:06[web全体で公開]
😶 美しく散ること
美しく散りたい、と思ってプレイすることは、完全には間違っていないと思うが、しかし、「かなり上級者向けのプレイ」ではないかと思う。

まず、わたしが「美しく散る」プレイをする場合のことを考えると(そんなことあるわけがない、と考えるのは表面的すぎる。例えば、急に仕事がぶっ続けで入って、数カ月単位で参加が困難、という場合、ただ離脱するよりは、最後にカッコいいとこ見せて話を盛り上げる手助けしようかな、くらいのことを考えても、悪くないだろうとわたしは思う)、まずやることは、「GMとの綿密な打ち合わせ」だ。「美しく散る」ためには、やっぱり「美しい」散りざまを見せるための舞台と演出が必要であり、それには、あらかじめGMに「今回のシナリオで散りたいんですけど、見せ場お願いできますか」という話をつけておく以外に方法がないからだ。

そのうえで、他のPLにも話を付けるべきかどうかを考えるだろう。他のPLに話しておくなら、他のPLもわたしの「美しい散りざま」を応援してくれる形でプレイしてくれるだろうし、話さないでおくなら、他のPLに対する「サプライズ」の効果を与えることになる。いずれにしても、肝要なのは「他のプレイヤーがわたしが散ることによって利益を得るか、最低でも不利益を被らないようにすること」であろう。

逆もある。隠密裏にGMから平身低頭されて「どうか次のシナリオで死んでくれないか」とか頼まれるケース。「話を盛り上げる」「敵との因縁を作る」などの理由で、「ここでこのキャラが死んでくれると最高なんだが」とGMが思うことは、けっこうあるわけだ。その場合、話に乗るのであれば、また、GMと綿密な打ち合わせをすることになるので、「美しい散り方」ができるだろう。

それをルール化したものとして、昔のツクダホビーのTRPG「ワープス」には「死んでヒーローをする」というのがあった。つまり、完全に絶体絶命で八方ふさがりでどうやっても突破することができない、という状態にパーティが陥った時、ヒーローポイントを消費してこの「死んでヒーローをする」という行動を選んだら、そのPCは「常識では考えられないほどの大活躍をしてから死ぬ」ことにより、他のPCを窮地から救うことができる、というものである。デザイナーにとっては安全弁というよりも一種の「冗談ルール」として作ったのだろうが、当時ルールを読んでいたわたしは「その手があったか」と思ったものである。



そのような根回しをするのは美しく散ることにならない、と考えるPLもいるだろうし、GMもいるだろう。かつてのわたしは、TRPGを一種のシミュレーションゲームと考えており、「死ぬリスク」が完全に存在しないゲームをするのは間違っている、と思っていた。戦闘のダイスはすべてオープンダイスで振られなくてはならず、結果はすべて受け入れられなくてはならない。そうすることにより、ぎりぎりの戦いを生きのびる興奮と、リアルでドラマチックな「死」とを体験することができるのではないか?

このSNSではオープンで戦闘することが当たり前になっていることを思うと隔世の感があるが、これ、当時はかなり「過激」な考え方であった。戦闘のダイスはクローズドで振るのが当たり前で、その理由はもちろん、「PCの命を守るため」である。ファンブルかなにかでPCが死んだらストーリーがそこで終わってしまいかねないからだ。ためしにGMとしてオープンでゲームをしようとしたら、熟練PLから「オープンでやるのはみんな嫌だぞ」と叱責くらった覚えもあるし。あれから25年して今にいたり、むしろ戦闘以外の大半をクローズドで振ることが多くなってしまった自分を考えればまた隔世の感である。

さて、この方法で「美しく散る」ことを考えた場合、必ず守らなくてはならないことがある。「PCひとりひとりが、最後まで、「敢闘精神」と「何が何でも生きのびるという決意」とを失わないで戦わねばならない」ということである。「自分は死んでもいいし、むしろ積極的に死ぬことにする」というような態度を取るPCがいたとすると、他のPCが不利益を被るからである。そもそも、戦場における「味方を救わない死」「味方を自分の死に巻き込む死」など、ヒロイックでもなければ、「美しく」もないとわたしは思う。勇戦敢闘の末に最善を尽くして散っていったからこそ、他のPCなりPLなりが「やつの死は美しい死だった」「自分も死ぬならあんな風に死にたいものだ」と思えるわけだ。


GMが話の決着をつけるために、意図的に「PC全員を死に至らしめるバッドエンドにする」ように持っていく、ということも考えられなくはない。例えば、それまでの話の流れで、ここでPCが責任取って全滅しなければ世界大戦になる、とかいう場合は、「ごめん死んでくれ」としかGMとしていえないし、その場合は、死ぬのにぴったりの晴れ舞台を用意しようとするだろう。BGMは「遥かなるアラモ」あたりか。そうなったら、PCも、覚悟を決めて、「美しく散る」「カッコよく死ぬ」ことに全力をそそいでRPする、と思われる。GMとの信頼関係が決裂していなければの話だが、決裂していたらそもそも卓が立たないだろう。


と、ここまで、自分が、「他のPCに迷惑をかけない範囲内で」「美しく散る」ことで「意義を見出せる」ための条件を考察してきたが、いまトピックになっている人の「美しい散り方の追求」とはかなりズレているような気がしてならない。しかし、わたしには、ここに挙げたやり方以外で「美しく散る」方法が見いだせないのだ。あったとしても、そこにはなんの意義も見いだせないだろう、と思う。要するに「他人が死にたくなっているところにお前も率先して道連れとして付き合えっていわれたら、かんべんしてくれよだなー」という思いなのだ。うーむ。


どうすればみんな満足するのかわたしにはわからぬ。


付記:どうやらこのトピックのもともとが「誤解」から始まっていたらしいことがわかったが、どこがどういうふうに誤解するとこんな騒動になるのかよくわからない。まあわからないなりに、これ以上障らないほうがいいと思う。

それでも、この日記は、TRPGのプレイにおいて「死ぬこと」を目的にプレイするには一つの指針というか、目安になると思われるので、このまま残しておくことにしたい。「死ぬこと」もまたひとつの演技であり、RPの楽しみである、とわたしは考えるからだ。どうせ死ぬなら、ソフォクレスの悲劇の主人公のように周囲を盛り上げて死にたいものである。
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レスポンス

USUI
USUIポール・ブリッツ
2019/11/21 20:24[web全体で公開]
> 日記:美しく散ること

素晴らしい。私は価値観等の根本的な物にしか目を向けておらず、『美しく散るという事がそもそもどういう事なのか』という事に関してはとんと考えておりませんでした。非常に参考になります。

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