愛善院さんの日記 「コミュ能力とか語彙力とか日本語力とか」

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愛善院
愛善院日記
2020/06/22 03:01[web全体で公開]
🤔 コミュ能力とか語彙力とか日本語力とか
(当日記記事は、AF問題に対する意見を意図していません)



あるシニフィアン(記)がそこにあるとき、それを知覚した瞬間にシニフィエ(義)を脳裏に適切に描くことができる能力を読解力とする。
TRPGに慣れると、文章を読んだり、誰かが発言しているのを聞くだけで、頭のなかにその風景が見えてきたりする(という人は少なくないはずだ)。
これの逆、できるだけ多くの人の頭のなかに映像を送れるように、言葉をあやつり、相手に知覚をもたらす能力を描写力(表現力)とする。

実は、コミュ力だろうと語彙力だろうと日本語力だろうと、最低限はこの2つのみによって構成される。

手練れてくると忘れがちになるもので、この2つをないがしろにして、感情や衝動だけを漠然と言語化することがある。

喩えると、タロットのチャリオット(逆位置)に似ている。車輪が外れているのに、威勢よく吠え猛る騎乗槍の戦士だ。
相手に近づけないのでその場で勢いのない槍を振り回すしかない。推進力がなく、敵に囲まれた気になってしまうので、目的としていた地点がどこであったかを忘れて、身を守ることに専念する。

これは人間として、きわめて大事な防衛本能だ。身動きがとれないとき、自我が壊れそうなとき、威嚇して他者を追い払ってから車輪を直す。元のようには走れない可能性もあるが、それでも釣り合いをとろうと自分でなんとかするならば、それはそれで非常に大切だ。また、ふと気づいて、周りが敵ばかりでない、車輪を直すのを手伝ってくれる人が多いことに気づくと、なおはかどる。

1番の問題は、目的が「目的の地点に到達すること」でも「自己を防衛すること」でも「車輪を直すこと」でもなくなり、全てを「自分のせいではない」または、全てを「周囲にいる者どものせいだ」と、責任を転嫁して、槍以て周囲に殴りかかることだ。責任転嫁が目的にすりかわってしまう。

車輪が外れた瞬間の、焦りや孤独、ともすれば、恥ずかしくなる、穴があったら入りたくなる、自我が崩壊寸前になる、という気持ちは、人間として起こりうる。
それを怒りにかえる、悲しみにかえる、感情を押し込めてしまう、のではなく、素直に受け止めるところができたとき、ただチャリオットに乗っているだけのお荷物でない、自分自身に操れる車体とその実力に誇りをもった戦士となることができるであろう。
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