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😊 善と正義の話 ちょっと流行に乗り遅れ気味なので、他の皆さんの考え方の感想がてら、少し別方向からの見方を一つ落としていきます。 善と正義を同一視して語られている方が多いように感じました。 その考え方を否定するわけではないんですが、そのせいでいささかわかりづらくなっているように思います。 単純に字のごとく、正義を「正しいこと」、善を「善きこと」と定義すると、 『正義であれば善である』も『善であれば正義である』も直ちに成り立つとはいえないのではないでしょうか。 たとえば、「国を守るという正義のため、敵軍の進路にある村の井戸に毒を投げ込む」というように、自分の信念から行けば正義であっても、自分の倫理感からは悪行と感じながらする行いも想定できます。 また、「道に迷っている人を道案内してあげたら、到着した先で自爆テロが起こった」といった場合、善行のつもりでした行為であっても、後からやらなければよかったと悔やむことに不思議はありません。 善≠正義だとして個人的に定義するなら、普遍的な善は存在せずとも、絶対的な正義もまた存在しなくとも、絶対的な善は存在しうると私は考えます。 なぜなら、私の考えでは善悪とは好悪に近いものであり、そして人に評価されなくとも成り立つ性質のものだからです。 自分の価値観に基づき、善を為そうとして善を為したのならば。それは等しく善と言って構わないと思うのです。 その行為を嫌うものもいるかもしれない、結果が伴わないかもしれない。独善や偽善と言われることもあるでしょう。 しかし善き行いをしようとして為したその意志には、きっと絶対的な価値があります。 そこだけは、外から後にどう評価しようが、決して覆すことはできません。 対して、正しいの対義語は間違いであり、ゆえに正義と結果を完全に切り離すことは困難です。 結果論から間違いと断ずる向きも必ず一定数存在します。勝てば官軍、勝たなければゴミ、みたいな。 (もちろん結果が出なくとも正義は正義という考え方もありますが) そのため余計に、普遍的な正義、絶対的な正義というのは難しい。存在し得ないというのもわかります。正義の反対は別の正義だ、という言葉も有名ですね。 ただ、逆説的にですが、もし正義の味方という存在がいるとするなら。 自分の正義に対する正義の存在を認め、悪と呼ばれることを覚悟しながらそれでも自分が正しいと信じることをするもの。 そこが最低限のラインではないかと思ったりするのです。 なんて、ちょっと自分の考えの覚書のような気分で書き連ねました。 ・・・さっさとSW2.5のバード考察の続きを書く作業に戻ります。
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