サンダーソードさんの日記 「善悪とか人それぞれとか議論とかのお話」

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サンダーソード
サンダーソード日記
2018/12/18 00:53[web全体で公開]
😶 善悪とか人それぞれとか議論とかのお話
なんかどうも善悪の話が流行になってたようなので、きっかけとなってしまった身として、ちょっと一席ぶってみるとします。

まず私のあの日記、「殺人は何が悪いんですか?」って聞かれたので「これこれこうだから悪いんですよ」と説明したところから始まりました。相手のの問い全部に答えつつ説明を繰り返して、500字制限に引っかかるので日記に切り替えて、という形でした。まあ相手が分かりたくない人だったようなので万言尽くしても無意味でしたが。当人は最後に救いがどうとか言ってましたが、その人の頭の中で私の説明がどう変換されたのかは分かりませんでした。

で、結論を改めて書きますと、「殺人は何が悪いのか」は、「集団の都合に反するから悪い」というわけです。これを善悪の概念まで広げるなら、「善悪とは何か?」「集団が生き延びるための仕組みである」ということになります。個人で善悪は存在しません。その理由は前の日記やらコメントやらを見てください。「自分が生きるためにすること」は善悪以前の生物としての最大目的ですね。原生生物のレベルから選択圧に晒され続けて、必然的に「生存しようとする生命」だけが残ります。そうして生き延びてきた末裔が我々なので、生物としての第一義は「生き延びる」ことにあります。善悪もこれの後に付随して生まれたものの一つなのです。そして「善悪とは集団が生き延びるための仕組みである」というのは、「これはキャベツである」と同程度の、ただの定義に過ぎないわけです。

それならなんだってこれほどまでに善悪の概念でわけのわからないことになっているのかというと、偏に分かりにくいからです。キャベツなら近所のスーパーで買ってきてこれがキャベツだって言えばいいですが、善悪はAmazonでもお取り寄せが効きません。「どうやって善悪が生まれたか」からいちいち考えなきゃならんわけです。そしてどうして「これはキャベツである」に過ぎないようなことを散々議論したり人それぞれであるべきだなんて結論に至ったりするのかと言うと、「善悪に似てる気がする概念とごっちゃにして使ってる」とか、「善悪の定義を知らない人がいっぱいいて、みんながなんとなくで使っているから」とかじゃないかと思います。欲求とか正義とか法律とか快不快とか好き嫌いとかをごっちゃにして、善悪を話してるつもりで別のことを話してたら当たり前ですが統一した結論には至れません。レタスを買ってきて「これはキャベツである」と教えられたら普通はお母さんに止められたりしますけど、それがなければそのまま刷り込まれてしまうわけです。そして白菜や芽キャベツをキャベツと思い込んでる人とキャベツに話し合ったら余計訳の分からんことになってしまいます。しかしそれでキャベツは人それぞれなんて結論を出したとしても、現実世界ではキャベツはキャベツです。トランスフォームしてレタスになったりはしません。

人それぞれの何が問題かというと、「人それぞれというのは人それぞれでいい部分にしか使えない」ことにあります。価値観がどうとかいうのも同様です。ですが、耳障りがいい言葉であるために自分の都合のいいように使う人が絶えないわけです。例えば、自分が論破されそうになった時に持ち出したりですね。「レタスをキャベツと呼ぶのは人それぞれだ」「レタスをキャベツと呼ぶのが私の価値観だ」と書けば、この物言いが詭弁だということは一目瞭然ではないでしょうか。決して錦の御旗ではないのです。「私はキャベツが嫌いだ」「私はキャベツが好きだ」「私は生のキャベツは好きだけど火を通すのは嫌だ」と、こちらに使うべきなのが「それは人それぞれだ」なわけですね。「殺人は悪」というのはその集団にとってのただの事実で、「殺人があるとか考えるのも嫌だ」「殺人は毎日でもやりたいくらい楽しい」「殺人なんて対岸の火事、特になんとも思わない」こっちが価値観です。

さて、皆がレタスをキャベツと思い込むと実用上どんな問題があるかですが、「キャベツが何なのか誰にもわからなくなる」ことにあります。スーパーに行ってレタスとか白菜とか芽キャベツとかがキャベツの棚に置かれてたら困りますね。キャベツならこの程度ですみますが、善悪を別のものと結びつけて騙されて、その上で良心に付け込んだりされるとまあ酷いことになります。善悪やら正義やらの「なんだかよくわからないけど尊ぶべきと思われる素敵っぽいもの」全般にこれは言えますね。「善悪がどんなものか」というのが分かってれば、善行のつもりで悪行をしたり、自分個人の好き嫌いやその時の気分を善悪と混同したりしなくて済みます。その上で、「悪人を減らして善人を増やすにはどうすればいいか」なんてことを議論することもできるようになります。各人が善悪を履き違えてると、そういう議論は100年経っても結論が出せません。

そして議論が発生するときにはそこに必ず目的があります。明示されてなくてもあります。よくあるのは事実の追求、確定とかですね。「これはこうじゃないか?」「いやそう考えるとここがこうなって矛盾する。こうじゃないか?」「なるほど、そう考えれば破綻しないな」と、目的のために知識や知恵や情報を提示しあって、間違いを削ぎ落とし勘違いを叩き潰し見落としを複数の視点から埋め、より正しい答えを得るための集団行動が議論です。そしてここに価値観が介在する余地はありません。「キャベツとは何か?」という定義は議論できても、「キャベツは好きか?」なんて議論は出来ません。「これはキャベツだ」「いやそれはレタスだ。スーパー行って買ってこい」「見てきた。レタスだった。キャベツはこっちだったのか」は成立します。そして議論の結果、誤認が一つ消えました。ですが「私はキャベツが嫌いだ」「私はキャベツが好きだ」「私は生のキャベツは好きだけど火を通すのは嫌だ」は議論が成立しません。キャベツ嫌いをキャベツ好きに変えようとする対話は議論ではなく説得です。そして人それぞれで終わる会話はただの雑談です。

では「なんだってこんなに結論の統一されないような議論がそこらじゅうにあるのか?」ってことですが、議論で答えが分かれるのは情報が足りてないか議論が足りてないか、あるいはそもそも議論じゃないからです。「キャベツとは何か?」と議論したとしても、各人がレタスと白菜と芽キャベツしか知らなければ知らなければどうしようもないですし、キャベツを知ってる人がいてもスーパーで見てこいとか植物辞典引けとか、そういう理解させるための証拠が提示できなければ平行線です。とは言え、これらは「キャベツを知ってて」「証拠を提示できる」人が一人でも議論に加われば説明するだけで解決します。問題はそもそも議論じゃない場合です。つまり、事実の追求を目的と標榜しつつも、別の目的を持って議論に参加してる嘘つきがいる場合です。この場合議論が討論に変貌します。「レタスがキャベツではない」とわかった上で「レタスをキャベツと主張する」と討論が起こります。この場合、レタスをキャベツと主張する人の目的は、「引っ込みがつかなくなったので押し通したい」「自分が間違ったことを主張していたと認めたくない」「こいつ嫌いだから言い負かされたくない」「キャベツ教に加入していてこの世全ての葉物はキャベツだと言い張りたい」とかなんかそんなのです。こうなると目的が違うので、キャベツがキャベツだと主張する人と喧嘩になるわけです。なおこういう思考プロセスになると間違ったことを正しく見えるように偽装するために頭を回すようになるので、何をどうしても論破されます。そして議論と討論を混同すると、相手の目的が違うってことに気付けないので泥沼になります。「レタスはキャベツではない」というのが「正しく」、「レタスはキャベツである」というのは「間違っている」。その結果を受けて「自分の誤認を改める」のと、「自分が間違っていたことを認めない」のと、どちらを恥に思うかが「人それぞれ」の「価値観の違い」で、「議論を終わらせる」か「討論を始める」かはその人の価値観が現れる「行動」です。そして後者は議論ができない人です。結論を認めたがらないので議論が終わりません。ちなみに私の価値観では、議論をして正しい意見を提示されたのに言い負かされたとか思うことは恥です。

まとめると、「善悪とは何か?」「集団が生き延びるための仕組みである」。「議論とは何か?」「皆で間違いを排して正解を模索する協力作業」。「人それぞれ」なのは嗜好や好悪や優先順位や価値基準などの「個人で完結するもの」であって、言葉の定義や集団の掲げる共通目的などの他者と共有するものには使えません。自分が議論できる人かどうかを手っ取り早く知りたいなら、この長々書いてある文章をどう思ったかで判別してください。「文章に正当性はあるか?」と疑問に思って疑問や反論をぶつけるか、「間違ってほしい」と思って難癖を付けるかで分かります。前者は議題に沿った話をして、後者は無関係な話を持ち出します。以上、善悪とか人それぞれとか議論とかのお話でした。長かった。
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レスポンス

フィルヒョウ
フィルヒョウサンダーソード
2018/12/18 02:49[web全体で公開]
> 日記:善悪とか人それぞれとか議論とかのお話
「集団の都合」と「集団が生きられるかどうか」が必ずしも合致するとは思えません。
しばしば引用される4人の漂流した船乗りが3人だけ生き残るために衰弱した1人を殺して食べて生き残る話がありますが、仮に4人で共倒れで死ぬことを決意して死んだときにはそれは悪なのでしょうか?

サンダーソードさんにとっての善は集団によって決められたことですか?それとも生きるための選択ですか?

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