サーラさんの日記
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日記一覧
サーラ | |
2022/05/24 18:31[web全体で公開] |
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2020/01/21 18:00[web全体で公開] |
😶 マズローの五段階欲求とプレイスタイルの齟齬 まえおき これは特定のプレイスタイルの優劣について書いたものではない。 ある遊び方に触れて違和感を覚えたときの原因について解き明かし、自分の出来る範囲で楽しく遊ぶために必要な方法を考えたものなので、気負うことなく読んでほしい。 人間の欲求にどんな種類があるかを考えるとき、マズローの五段階欲求というものがある。 大まかに言えば、以下の五段階の欲求あり、一番下から順に満たしていくことになる、というものだ。 五段階・自己実現欲求:自分の世界観・人生観に基づいて、「あるべき自分」になりたいと願う欲求 四段階・承認(尊重)欲求:他者から尊敬されたい、認められたいと願う欲求 三段階・社会的欲求:友人や家族、ギルドから受け入れられたい欲求 二段階・安全欲求:安心・安全な暮らしへの欲求 一段階・生理的欲求:「食欲」「睡眠欲」等、生命の維持に必要な欲求 これらの欲求のうち、社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求を満たすことは、キャラクターが冒険者などの特定の立場についた目的として、もしくはキャラクターがそのシナリオに関わる動機とするために、主にプレイヤー側で利用される。 一方、安全欲求を満たすことはゲームマスター側がシナリオに設定する目的としてしばしば利用する。 安全欲求をシナリオの目的として設定した代表例は、いわゆる単発の脱出系クローズドシナリオだ。 安全欲求をシナリオの目的として設定することには、ある長所がある。 それは、それぞれのキャラクターが抱えている設定に関係なく、最終的に安全を手に入れるという共通の目的のために皆で解決を図る、という遊び方ができることだ。 実際、この類のシナリオは進行上容認できるキャラクターの受け皿が広く(生きたいと思って行動すればそれで良い)、様々なキャラクターで遊ぶことができる。 ただし、これらは裏を返せば短所にもなる。 五段階欲求の特徴として、より低い段階の欲求を満たして初めて次の欲求が生まれる、というものがある。 言い換えれば、より段階の低い欲求が満たせなければ、それを満たすための行動を何よりも優先するということになる。 キャラクターの受け皿が広い理由はここで、つまりこのシナリオは環境の変化をきっかけとして、キャラクターの欲求段階を無理やり安全欲求まで引き下げているのだ。 受け皿が広いということは、ゲームマスター視点の話であって、プレイヤー視点で遊ぶこととは事情が異なる。 そして、さきほど挙げた短所は、このプレイヤーのうち、特にキャラクター性を重視するタイプの人に出る。 そのプレイヤーがこのタイプのシナリオにあたってしまった場合、プレイヤーのするつもりだった遊び方がシナリオの想定する遊び方と全く異なり、それどころかシナリオの想定する遊び方に否応なしに上書きされてしまう。 こうなると、参加者が遊ぶためのシナリオが、その役割からずれることになってしまう。 想定した遊び方が噛み合わないと、せっかく作った設定もその場で生かしきれずに苦しい想いをするだろう。 対策はシンプルで、その遊び方に合ったキャラクターを用意するか、そもそもその手のシナリオを避けることが望ましい。 ただし、それが実現できるかは別問題なので、参考程度にとどめておいてほしい。
サーラ | |
2020/01/10 18:00[web全体で公開] |
😶 創作における精神障害の位置づけ キャラクターの特徴として、精神障害や精神医学的な現象を扱うことがある。 例えば、多重人格、IF(イマジナリーフレンド)、記憶障害、PTSD、境界性人格障害などがそうだ。 これらを挙げたのは、キャラクターの別側面の表現に利用しやすいからだ。 多重人格、IF、記憶障害の三つはそれに加え神秘性も強く、上手く使えばさらに魅力的なキャラクターを演出できる。 ただ、無闇にこれらの特徴をもたせるのも悩ましい。 これらの設定の役割は、あくまでPC自身では解決困難な問題をわかりやすく他人に示す所だと思う。 それが果たせるなら、精神障害という形をとることもないのだ。 だって、たとえ障害を抱えていなくとも、家族の死はショックなものだし、乙女心は複雑だ。 故あって思い出せないのではなく、ただ忘れていただけにしてもいいことだってある。 確かに病名が付けば若干深刻だろうが、その深刻さを本当に必要なものにとっておくのも大事なことだ。 これらの精神障害は辛い過去を背負ったキャラクターに設定されることが多いと思うが、 共通して言えるのは、最終的に何らかの形で完治――多重人格・IFの場合は寛解の場合もあるが――することが望ましいということだ。 そういう意味で、これらの設定はシナリオ上のヒロインやうちよそ交流に向いている。 この特性を活かすなら、この手の問題を詰みの状態で提示するのはよくないだろう。 ところで、これらをPCの設定にして、何かシナリオ上の意味があるかと言えば特に無い。 そのため、うちよそがあまり歓迎されない場所でシナリオと直接関わらないサブストーリーを展開させたり、 そもそもセッション時間がシビアな場合に時間を取るようなことは避けたい。 創作の世界は、基本的に自分の意志のみでは変えられない現実と違い、思いのままに状況を作り上げられる。 ただし、その代償として、その設定が必然である理由が求められる。 精神障害とは、つまり精神の機能不全だ。快調であることに越したことはないであろうものをわざわざ設定する以上、その理由がはっきりしないと、リアリティに欠けるものが出来てしまう。 あなたがもしリアリティと個性のあるキャラクターを作りたくて精神障害を使おうとするのなら、そのPCが異常と気づかせるためだけに在るような設定ではなく、その設定でなければならない理由があるときに初めて持たせるのが良いと思う。 さいごに。 これは定石のようなものであって、当然例外は存在する。 創作と現実の精神障害は全く違うものだ。創作がこうだからと早合点せず、分けて考えてほしい。
サーラ | |
2020/01/09 18:33[web全体で公開] |
😶 キャラクターを好きになるということ 今回書く内容は、通常よりも人を選ぶものだ。嫌悪感を抱くことがあれば、これは自分向けではないと解釈してほしい。 また、これまでの話にも言えるが、わたしの話すことに合わない例外というものは必ず存在するため、杓子定規に当てはめないようにだけ、注意して欲しい。 キャラクターを好きになる、とはどういうことだろうか。 まずはわたしの気持ちをここに書き出す。 わたしは、自分の作ったキャラクターが大好きだ。 わたし好みの可愛らしい、あるいは格好の良い外見は、そのままわたしのモチベーションを引き上げてくれる。 普段は優しく、ときに厳しくしながら、周囲の人間に幸せを振りまく姿には、ヒトの善性を強く感じさせられる。 そんな彼らも等身大の人間であり、それ故に悩みを持っているものの、それを表に出そうとはせず、あくまで健気に振る舞う様は陰ながら応援したくなる。 そして、彼らの歩んだ人生という名の物語は、そのどれもが彼らを彼らたらしめ、だからこそ彼らもまた、この世界に生まれた、ただ一人の貴い存在なのだと認識させられるのだ。 わたしの好意がどのようなものかが伝われば嬉しい。 上の発言を分解すると、好意とは、ざっくり言って次の要素から芽生えるものだ。 外見が気に入った。 普段から触れる性格が気に入った。 普段は見せることの無い別の一面を知って、そのギャップに惹かれた。 キャラクターの歩んだ、人生という名の物語に触れ、それに惹かれた。 実際これらに当てはまれば、他人のキャラクターであっても、わたしは自身のキャラクターと同様に好意を抱くことが多い。 しかし自身のキャラクターを凌駕する勢いで、他人のキャラクターを著しく好きになってしまうケースもある。 そのキャラクターに対しては、さらに次のような想いを抱くことになる。 自分のPCを通してそのキャラクターに関わることで、幸せにしてあげたいというポジティブな想い。 かつ、そのキャラクターから自分が遠ざかりたくないというネガティブな想い。 これもまた好きということに違いはないが、それまでに挙げた好意とは一線を画すものだ。 これは恋愛感情そのものであり、キャラクターを好きになる、と一口に言っても、実は好意と恋愛の二種類が混在した言葉ということになる。 しかし、恋愛感情とは時に人を狂わせるものでもある。 恋煩いという言葉があるように、普段できていたことができなくなったり、各方面に迷惑をかけてしまうことがある。また、振られてしまったり、いざ破局が訪れたときのショックは大きいだろうが、それで済めばまだマシというものだ(無論、迷惑をかけられた各方面は許すべきだ、と諭すつもりはないが)。 考えてもみてほしい。 人間は、不完全な認識力しか持たないからこそ、紡ぎあげた言葉の羅列を読み解いていくことで、存在しないはずの人間を感じとることが出来る。 そこから湧き出した本物の感情をぶつけることは、たとえ現実に居なくとも、その存在を認めるような行為だ。 それを理解した上で行わなかったとしたら。 PCへの恋愛感情が暴走してしまい、現実に存在し得ない以上、永遠に実らない恋を抱えてしまうかもしれない。 現実に存在しないPCへの恋愛感情が、いつの間にか現実に存在するPLへの恋愛感情と錯覚(発展ではない)してしまう、といった、自身の恋愛感情がどの方向に向いているかを間違えてしまうかもしれない。 使い方を誤れば、取り返しのつかない失敗をしてしまうことは、想像に難くない。 それでも、その感情を適度に用いることができれば、ただ好意を抱いているキャラクターと共に遊ぶよりもずっと鮮烈な体験となるはずだ。 恋愛を利用した遊び方は、往々にして自身のPCに対して極度に感情移入する。 自身の感情がそのままPCの感情にリンクされることで、当人にとって究極の臨場感を生み出す。 あなたが他者との継続的な交流、それもPCの内面を通わせる交流を楽しみにするPLである場合は特に、これらの感情に振り回される可能性があることを、どうか留意しておいてほしい。
サーラ | |
2020/01/08 16:12[web全体で公開] |
😶 生きたキャラクター あなたは、キャラクターが生きている、と言われてピンと来るだろうか。 これはもののたとえで、スピリチュアルな意味ではない。 要するに、そのキャラクターの在りように説得力がある、ということだ。 キャラクターにはPC(プレイヤーキャラクター)とNPC(ノンプレイヤーキャラクター)があり、どちらにも同じことが言えるが、今回はPCを焦点に当てる。 生きたキャラクターとは一体どのようにして作られるのか、順を追って考える。 PCを作る時、データ的な側面は勿論、誰しも性格を決めるだろう。 そして、その性格を軸にしてRP(ロールプレイ)する。 これだけで、一期一会の単発セッションに用いるPCとしては完成といえる。 なんやかんやあって依頼を引き受け、なんやかんやあって完遂させる。 単純なシナリオの流れに思想や信条の入り込む余地は皆無と言って良い。 最終的には断れないし、わざと失敗することもない。 だから、これだけで十分なのだ。 しかし言い換えてみれば、全員、シナリオを進めるためにその依頼を引き受けている。 PCの都合ではなく、GM(ゲームマスター)とPL(プレイヤー)の都合が第一にある。 ということは、軸となる性格もまた、シナリオとPLの都合により生み出されたものとなりかねない。 そう考えると、軸となる性格だけでは、PCが生きていると感じることは些か困難だった。 軸となる性格は、所謂ステレオタイプだ。 例として3つ挙げるならば、情に厚い、極端に暗い、機械のよう、といった具合だろう。 思い当たるキャラが一人以下、ということはないはずだ。 つまり、それだけでは一人のPCとして確立し得ない。 だが、その性格を作り上げた背景を考えると、どうだろうか。 例えば、元々は冷たい(無口な)人間だったが、そのせいで想いを伝えられずに大切な人を亡くした過去があるとすれば。 次は伝えられないことがないように、情に厚い性格になった。 二度とそんな経験をするなら、大切な人など要らないと、極端に暗くなってしまった。 そもそもそんな事態が起こらないように最善を尽くすと努力を積み重ねた結果、苦労知らずの機械のような性格になった。 同じ背景を挙げた例でも、それぞれに違った、その人の本質ともいうべき個性と、人生を感じられないだろうか? これでも既存のキャラクターと被ることはあるが、それが個人の歩んできた人生だというのなら、一概に比較出来るものでは無くなったのではないだろうか? 余談だが、背景を増やすほど、そのPCの人生は波乱万丈なものとなる。 最低一つは誰にでも持ち得る以上持っておくと良いだろうが、増やしすぎるのも考えものだ。 そのキャラクターの本質を知るための背景が、却って本質を見えづらくさせてしまうし、 それほどの背景を経た性格はもはや誰かと関わって関係を深める段階になく、手遅れの状態にもなってしまう可能性がある。 こうして、背景を持ったPCが作られたものの、まだ生きたキャラクターとは呼べない。 背景を得たとしても、PC達の舞台となる現実に何も不都合が生じていないのであれば、それは意味を持たない。 背景を共有するきっかけがない以上、その背景は存在しないのと同じなのだ。 背景を共有するきっかけは、所謂一般人と比較しても普段のPCと比較しても普通でない行動にある。 突然取り乱す。普段温厚な人が冷徹になる。普段は手を差し伸べるような人間が、あっさりと人を切り捨てる。 そういったわずかなひずみは、そのPCの背景に至る呼び水となるし、そのPC固有の振る舞いとなる。 さて、背景を共有するきっかけを作ったが、それでもまだ生きたキャラクターとはならないだろう。 それについて踏み込んだことを聞かれない、それどころか反応もされない場合、それは時々へんになることもあるけど普通の人、以上の意味を持たなくなってしまう。 また、例えばあなたが、知り合いではあるが特にこれといった交流のない人物から、自分自身の恥ずかしいクセについて踏み込まれて、実はこういうことがあったのだと赤裸々に語るだろうか?語るとして、それはその場しのぎの嘘だったり、さもどうでもいいように取り繕ったりはしないだろうか? PCも、きっと同じような反応を返すはずだ。 つまり、それらの細かい設定を用意してなお、最後にPCを生きたキャラクターたらしめるのは、他者との交流、それも小さな信頼の積み重ねに他ならないと考える。 シナリオに関係のない、本来は全く作る必要のない細かな部分。 神は細部に宿るというが、PCの設定と交流の積み重ね、という細部に宿ったのは、それらに裏打ちされたブレようもない強固な人格だ。 人によれば、それを生きていると形容することもあるだろう。 あるPCがその性格を作り上げた背景を、細かな交流の果てに見つけることで、漸く、そのPCの在りように納得出来る。 そのPCを、個人と認識できる。 だからわたしは、それを見つけることが好きだ。
サーラ | |
2020/01/07 15:41[web全体で公開] |
😶 わたしにとっての楽しさの再発見 はじめに。 わたしは現時点でもSW2とDX3は好きである。システムに優劣をつけるつもりはないし、まして他人のプレイスタイルをどうこういうつもりもない。 これは、わたしの感じたことだ。 わたしは、いつからかTRPGを楽しむという感覚を勘違いしていた。 ある時、DX3(ダブルクロス)をしよう、と一人の知り合いに誘われ、わたしはそれにのめり込んだ。 CoC、SW2(.5)と比べて、簡単に、ドラマチックなセッションを展開出来る。 それは、感動することが大好きなわたしにとっては、最高の場所だと信じて疑わなかった。 初めてDX3をしたとき、わたしはSW2の癖が抜けず、同じキャラクターを何度も別のシナリオで使い回すものだと思っていた。 しかし、回数を重ねるにつれ、シナリオごとに、同じPLから種々様々なPCが提出されて、それは特殊な遊び方とわかった。 シナリオごとにハンドアウトが存在する。こういう立場で、こういう目的をもったPCが求められている。 そして、それに沿ったPCを作る。とても新鮮で、楽しい遊び方だった。 このキャラクターにはこういった過去があるので、それに沿ったシーンを展開する。 シーンに出ているわたしのPCは、わたしの目にもとてもかっこよく写った。無論、他人のPCもそうだった。 強い構築に裏付けられた強い動きは、そのままキャラクターの凄みを醸し出す。 あまりに強すぎると他人の必要性が薄くなるように感じる、といった点は今回はご愛敬。 そうして、ほぼ必ずヒロインは助け出す。悪は挫く。王道だが、王道こそが面白い。 けれど、何かが欠けていた。 わたしのPCは、このヒロインと仲が良かったんだな。 わたしのPCにとって、このヒロインは大切な存在なんだな。頭では理解できた。 だから、ヒロインを助けると心に誓う。そんな熱いシーンをした。 ヒロインを救った後、感謝や、胸に秘めた想いを打ち明けられる。それにわたしのPCは返答する。そんな心躍るようなシーンもした。 しかし、そこに打ち震えるような感動はなかった。 それはただ、不快ではないだけだった。 居心地が良いだけで、DX3のやり方でわたしの望む最高のセッションを行えたことはなかった。 不快ではないセッションをするだけでは、わたしにとって、心から楽しい環境やセッションとは言えない。 数年間このシステムをずっと遊び続けて、やっとたどり着いた、わたしにとっての楽しさに繋がる答えの一つだった。 それに気づいたとき、わたしは衝撃を受けた。 何故、そしていつから勘違いしていたのかを振り返る。 その方法は単純で、楽しかった瞬間を思い出して、現状と照らし合わせる。 これを繰り返して齟齬が出れば、そのように現状が変化した経緯を思い出す。 わたしが楽しかった瞬間は次の通り。 自分のPCの深い設定を誰かに見てもらい、その人が夢中になってくれること。 自分が他人のPCの深い設定を見て、夢中になること。なんとか助けようとしたり、関わろうとすること。 出てきたものも至ってシンプルで、わたしはどうしようもないほどに他者との交流が大好きなのだと感じた。 そして、満たされていない理由もハッキリした。 わたしが、他人を夢中にさせるような設定を書けなかった。 他人が、わたしを夢中にさせるような設定を作っていなかった。 それらが夢中になれるような設定だとしても、交流するタイミングがわからなかった。 設定を書けない理由はモチベーションの低下だ。他人のモチベーションが低下する理由は分からないが、 わたしに限って言えば、キャラクターの奥深くを見せることが皆無だったからだ。だから、交流もなかった。 理由は沢山ある。 時間を使って、セッション進行の妨げになるから。 シナリオとは全く関係のない物語の軸が出来てしまい、せっかく練ってきたシナリオを台無しにしてしまうから。 そもそも、一度きりしか使わないキャラクターを掘り下げても、二度と使わない以上労力に見合わないから。 ヒロインの役目を奪うことになりかねないから。 普段メリットとされるあらゆる要素が、わたしの楽しみ方に立ち塞がった。 わたしが今まで最高の環境だと思っていたものは、実際には絶対にわたしが心から楽しむことはできない環境だった。 わたしが心から楽しんでいた環境はどういうものだったかを思い出して、気づいた。 わたしの遊び方は、単発セッションのプレイヤーには向いていない。 一度きりしか使わないキャラクターを掘り下げても、二度と使わない以上労力に見合わないから。 わたしの遊び方は、異なるハンドアウトを用いたシナリオのプレイヤーに向いていない。 ハンドアウトを使った時点で、それはわたしが独自に考えたキャラクターの性質ではなく、物語に必要な歯車に成り代わってしまうから。 それを叶えてくれる場所は、一口に言えばフリーキャンペーンのような形式だった。 わたしも他人も同じキャラクターを使い、複数回にわたって交流したり、 セッションを行わない時間で、茶番と称して互いのキャラクターを理解しあったり、 個別ハンドアウトの存在しない、同じ存在として触れ合うことが、わたしは大好きだったのだ。 そうして、さらに気づいたこともある。 シナリオの展開には全く関係しない以上、全く考えなくても問題のないもの、 キャラクターの効率的な育成を考えれば不要な要素(ほぼ確実にセッション中使わないが持つものなど)、 それらは、往々にして無駄と省かれたり、一部の人間からはエンジョイだのパーティーに貢献すべきだの叩かれることもある要素だ。 それでも、わたしはそれらは必要なものだと思っている。 その無駄は、いわばキャラクターに深みを出すスペースだ。必須とまでは言わないが、問題が表出しない限りは咎めるものではない。 少しの無駄を用意することで、とっておきの展開を共有できるのなら、それはとても割のいい投資だと信じている。 さいごに。 これだけ書き連ねたところでわたしの100の質問を覗いてみたら、これまでの話の総括のような答えが出てきてとても驚いた。 なので、そのまま利用して締めくくろうと思う。 Q99. TRPGの楽しさとは何ですか? セッションを通して自分のキャラを好きになってもらい、相手のキャラを好きになる。 そういったプラスの感情を投げ合うことに尽きると思います。