愛善院さんの日記
愛善院さんが書いた日記の一覧を閲覧できます。
日記一覧
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2020/08/19 22:39[web全体で公開] |
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2020/08/13 17:23[web全体で公開] |
😍 虹がでたでた 16:50~17:20 東京都の中野区、杉並区、渋谷区あたりを散歩中 人生で一番みごとな虹をみた。 完全な半円弓 紫と赤が明確に識別できる さらに、狐の嫁入りの最中 幸せだ。
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2020/08/12 16:33[web全体で公開] |
😆 いまの私の目標は ここ2週間ばかり 【「イイね」が0件】 になるような日記を 心ひそかに目指しているが、 (逆ベクトル形成の実験) 実は、 「イイね」の数を増やすのは容易く 「イイね」の数を減らすほうが難しいようだ。 他者の興味をひきつけた状態で いわゆる「総好かん」を達成するには 並大抵の工夫ではどうにもならない。
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2020/08/11 12:13[web全体で公開] |
🤔 言語感覚の生理的嫌悪およびその伸長 ある種の強迫障害とか強迫症のレベルで 言葉の扱いかたを鋭く感じとる そういう語感の持ち主がいる。 というか、私もわりとそうで というのは、 日記の記事を見ても、 不思議なほど行替えをしていることから わかっていただけるのではなかろうか。 少なくとも日本語話者の場合、 この感覚がある人とない人との差は かなり明確だったりする。 世の中のSNSなどを見回しても ほんの些細な(本筋に大きく関わるものではない) 言い間違いや文法違い 語の使用のあやまりなどに対して 「ひとこと言わねば気がすまない」人は 散見されることだろう。 面倒くさいと思うなかれ。 我らにとっての「それ」は 曇りガラスをシザーハンズでひっかいたり 頭頂部を紙ヤスリでこすられたり するくらいの苦痛を伴っていることがあるのだから。 この語感をもつと、ある種の言語事象に対して 極端に鋭利な刺激、 あるいはしばしば超ドの圧迫感を得る。 わりと強度なストレスになる人もいる。 これによってコミュ障となる場合も多少ある。 「言語」を「第六感」として処理すると 目や耳や鼻と同じように その言葉の扱いかたに 「生命の危機」を感じていることすらある。 が、 実際に「言葉」によって 物理的に死ぬことはないので 他の人からみれば 「なんだい、そんなことか」 と笑い飛ばされたりする。 花粉症になったことがないやつに 花粉症の辛さはわかるまい。 言葉に対する過敏症であっても それは同じことだと思われる。 さて、 物事は常に逆の価値観、 逆のベクトルから検証すると面白い。 この語感、 言葉に対する異常なほどの鋭さは、 どのように利用するべきであろうか? せっかく持ってしまった特性でもあるので それを生かす方向で考えてみると ひとつには その感覚を伸ばして 「その言葉づかいだとなぜ感動(納得)するのか」 を分析したり 自分の表現にとりいれたりすることができる ということであろうか。 自分が好ましいとするものが 何であるのか どういうものであるのか それはなぜなのか どうすればできるか などなど、 直観で見抜いていくことができたりする。 さらに応用すると 相手の感情や感覚の度合いすら見えたりする。 一方で 苦手とする言葉、嫌いな言葉の扱いに対して ときどき挑んでみるのもよい。 単なる食わず嫌いもあったりする。 言葉の過敏になっている部分を慣らしていくのだ。 もっとも 生理的に無理な言葉の扱いしかしない人物も ごくまれにあるとは思うので。 そういうのは、できるだけ 無視や批判ではなく 拒絶、避ける、そっと離れる ソーシャルディスタンスをとるのが得策かもしれない。
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2020/08/11 00:35[web全体で公開] |
🤔 されど愛しきは地球(コミュ化すべきか) 久々におばあバージョンの愛善院でお送りします。 昨日だったか50年前だったか、 日記の記事にルール粗案を提示した 【されど愛しきは地球(仮)】 面白がってくれる人は 何人かいらっしゃるだろうことは実感したが コミュニティにするほどのものかどうか。 そもそも、PLやってもいいというかたが 何人いらっしゃることだろうか。 …… そもそもこのゲームの発端は 実はここ最近のコロナ禍で 私のところに 統合失調症や鬱(軽度)の相談者が増えたことにある。 (重ねて、 私は心理学や精神分析に関しては何の資格も持たない 自称「言語心理学のひと」であることも明記する) この最近の相談者にみる統合失調は、 どうも 「重すぎる責任に耐え兼ねて」 または 「責任を担わせてくる存在を急激に喪失して」 その相談者を責め立て、脅す というような幻聴・幻覚・妄執が多いようだ。 簡単には(少なくとも若い世代は) ガミガミ言ってた上司が リモートワークで距離ができたことによる空白を 埋めるための作用なのではないか と、仮説づけられるような気がしている。 【されど愛しきは地球(仮)】は、 会話を中心とした「心理ゲーム」を基調とする。 人間として実際に活動する「自分」を 架空の宇宙人が「自分」を操っている、というように 自分自身の日常を客観視しながら 他のPLと話題を共有し、 それに関して「宇宙人」同士として 意見や感想や賛辞をしあうものを想定している。 PLの自分自身が地球人PCであり、 このキャラクターはどう考えて行動したのか、を 宇宙人PCとして分析しあうのである。 さらに、 自分たちのまわりにある日常も 宇宙人の目には不思議な慣例も。 つまるところ ある種の自己カウンセリングである。 私は、しょっちゅう 「私の頭の中の私」という言い方をするが、 客観的事実を分析する自己と 主観的実態を感じとる自己とが分離しているため こういうことになる。 要は、 私を操る私と、 世界や宇宙を実感する私とを ちょびっとずらして存在させている。 日頃からこれをやっていると たぶん、疲労困憊はなはだしいものなのだろうが これが週1回のゲームならばどうか? という思いつきが始まりであった。 ……本当に やりたいと思う人はいるんだろうか?
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2020/08/09 23:50[web全体で公開] |
😍 されど愛しきは地球(ルール粗案) あなたは、宇宙人です。 ……え? 「地球人です」って? ああ、無理もない。 いちから説明しましょう。 このたびは、我がアストロール旅行社 「地球人 体験ツアー」にようこそ! あなたがたは、日頃のストレスからの解放をもとめ あるいはエキゾチックな地球に魅了されて 当ツアーに申し込みなされました。 エイリアン機密保持のため 一時的に宇宙人である記憶のほとんどを封印し、また 地球人である記憶をほんの少しだけ植え付けています。 大丈夫! ツアーが終わるまでには 必ずあなたの記憶は元にもどしますから! あなたは、他のツアー参加者同様 地球人の姿をし、地球人の家に住み、 時によっては地球人の家族とともに暮らし、 地球人の仕事をしながら生活してください。 あー、……つまり。 いま、あなたのリアルな記憶。 間違いなく自分が経験したことだといえる記憶。 それは、こちらでデータとして用意したものです。 思い出せる家族の顔は、地球人ですか? ……よろしい! それらが地球で暮らすための記憶です。 さて(地球人としての) 右手の人差し指に、 ツアー参加者や、私どもとコンタクトをとる 通信手段が内臓されています。 ツアー参加者は、それぞれ 別の場所で別の仕事をしていることが予想されます。 当ツアーのシステムは 「人間のひとり」になることしかできませんので 地球を体験するのも、 ……たかだか 猿の進化形1個分の脳の範囲でしか把握できません。 しかし! 我が社は、 地球人の「言語コミュニケーション」に着目! 地球人の言葉を使って、 「自分はこんな体験をした!」 と、口々に語っていただければ、 一緒になって体験したような気持ちになれるのですッ! ちなみに、 滞在期間はありません。 好きなだけいてくださっても良いですし 満足したら、星にお帰りになっても結構です。 あ、ただし、 どれだけいても構いませんが、 その地球人の身体の寿命がきますと…… 安全のため、自動で強制送還させていただきますね。 あ、そうそう。 滞在期間が無期限なのには訳がありまして、 記憶を封印するまえに同意してもらったのですが 地球人や地球を観察して レポートを作って欲しいんですね。 我が社の親会社は、 地球人の解析に熱意を注いでおりますものですから 言ってみたら、そのレポートが、 あなたの旅費となるわけです。 たぶん、おひとりあたり 期限1週間で4行程度、提出していただければ。 提出方法は、先ほどもでました右手の人差し指です。 他のツアー参加者と相談したり、 連名でレポートにしてくださってもいいですよ。 ときどきは私もお手伝いしますね! レポートには、 週ごとに「レベル」と「テーマ」があります。 現時点レベル1~レベル6まで テーマがそれぞれ6つ。 例えば レベル1は割りと簡単。 「地球で嬉しかったことについて、 地球人にされて嬉しかったことについて」 みたいなレポートをすることになります。 レベル6だと 「地球で何とかしなくてはならないこと、 地球人をどうすべきか」 などのように、難しいこともあるかもしれません。 説明すべきことは以上です。 質問やトラブル発生時には、ご遠慮なく当方へ! それでは、みなさま、よきご旅行を! …………………………………… MIBというか、 【地球調査員、宇宙人ジョーンズ】 をモチーフにしていたら、こんなものが。 さあ、みなさんも 「地球人のふりをした宇宙人」をRPしてみませんか?
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2020/08/08 12:37[web全体で公開] |
🤔 イヌとネコのマイペース シナリオ進行というやつについてのブレスト。 大した結論もない与太噺。 二項対立の点と点。 結びつけて、その直線を眺める。 TRPGにおいても 樹上に生きるもののマイペースと 地上を駆けるもののマイペースとは大きく違う。 ペースメイカーへの依存度、 服従度まで考えると 十人十色、千差万別。 ではどうするか。 方法を両手では抱えきれないほど持ち 観察や分析は滑らかにすばやく ひとりひとりにきちんと向き合うための 言葉を丁寧に瞬時に編み出し…… 10人の話を一度に聞くことはできても 10人それぞれに一度に応えることはできない。 ……事前研究(対応予想)を限りなく増やすか、 注目すべきところ、スポットをあてるところを より多くの人物の着目をひくようにするか、 PLまたはGMを厳選して、 より多くを率いることができる ペースメイカーを確保するべきか。 「君が君であるならば 僕は僕でありつづけよう」 でありながら、 心地よい状態を保つ秘訣は? このあたりは結局のところ 信頼関係とか、人間的な魅力とか、 私の一番苦手な分野な気がするぞ。
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2020/08/06 05:01[web全体で公開] |
🤔 常識とは何か なんというか…… 「正論」らしいことを日記に書くと その記事に対して 「イイね」の数が増えることに違和感がある。 極端に嫌悪や忌避を感じるものでもないが そんなにも「正論」に飢えている人々が 多いということなのだろうか。 私の頭の中の私はセイロンティーを好むが。 (しかも、うんざりするほど甘いやつ) こちらとしては 日記なんてものを読んでいただくだけで充分すぎるが ましてや、めちゃくちゃ長文であるのを 読みきってくれるだけでも感激するくらいのものだが いわゆる正論というやつは、 ありとあらゆるベクトルの軸をもった批判だ。 ゆえに、その正論に賛同している人であろうと すでに私の槍は、 その人自身を捕らえている危険性がある。 日本人は、名指しされるまで 「対岸の火事」だと思える神経を持ち合わせる。 いわゆる先端恐怖症でないならば 槍が向けられていても対岸と思えてしまったほうが ストレスフリーではある。 が、 「おまえを狙い打ちした槍に対して イイねを投げてくるってどういうことなの? おまえの行動について論説してるんだけど?」 という事例が、実は多い。 いわゆる「茹でカエルの喩え」であろうか。 さても、日本人は ある種の信仰を奪われてしまったために 「常識」や「科学」を宗教的にしてしまった。 しかも、これらは、儀式的宗教と同じように ごく普通にいたるところで宗教戦争をおこす。 端的に集約すると 「こちらの常識のが優れている!」 と主張しあう、幼稚園児なみのアレ、 という印象で私はとらえている。 (ちなみに「科学」については 本来は信仰であってはいけないもので、 つねに信じるの反対 「疑う(再現性)」が元になる学門であるから そもそも信仰にしてる日本人は、怖い) アインシュタインにいわせると 「常識とは15歳までに集めた偏見のコレクション」 だそうで。 コレクションを見せびらかしあうのは良いとして 相手のコレクションを 自分のコレクションで叩きつぶす とかいう、謎の戦乱を、 人々は飽きもせずくりひろげる。 前回にひきつづき私はこの言葉をだすが 「複数者の間に存在する常識とは 個個人の想定する常識の 【最大公約数】にすぎない」 この最大公約数というやつは便利で 軍隊教育を受けたわけではない人が6人以上になると、 たいがい【1】にしかならない。 さて、その【1】を いかに想定するべきや? いろいろ巡って常識の範囲などを調べると やはり某ティッシュの謳い文句 「やさしく触れていいですか」 が、なかなかに好きだ。 常識と常識の接点というのは ティッシュよりも軽く柔らかでありたいものだ。 さて、ともかく 常識というやつは、 個個人が思惑する「常識」と 複数他者の合意しうる「常識」と 最低限、この2種はあるように思う。 聖書聖典でもあれば この範囲は明確に どこからどこまでが原理主義で どこからどこまでがプロテスタント系で どこからどこまでが民俗習合で と、区別でもつけられようところだが 目の前にいる人間が どの常識に属すのかさっぱりわからない、 というのが、日本である。 ……欧米なら、 複数他者の間にある常識は「キリスト教的な」 で、おおよそ片付くので システム的に少しだけ展開がはやいのだが。 しかも日本人は 「言葉にしなくても」「してくれるはず」 という、 相手からの奉仕活動を容易に期待する 悪しき習慣があるらしいので 個個人の常識が明文化されないことが多い。 TRPGをやる人間は 少なからず「ハウスルール」という概念があるため 自分の常識が いつもいつでも通用するとは限らないことを 少なからず知っているはずではあるが。 個人の常識は、明文化しないならば その個人だけに通用する。 (明文化した場合、 それを合意した中だけで通用する) さても、自分自身に常識を適用させたとき たとえば 「本題に関係ないことはコメントすべきでない」 という常識が私のなかにあるとき、 (これはあくまでも例え話で、 そんな常識をもっているわけではないばかりか 私は基本的に関係ないことをめちゃくちゃ喋ります) 他の誰かが、 本題に関係ないことをコメントしたとき 私の常識から逸脱しているから イラムカするのか? ということになる。 私の頭の中の私は、 私に対して「あなたはそれはやっちゃダメ」 と禁止してくるとしても、 「それを他者にも徹底させる必要がある」 とは、言わない。 たとえば、こういう場合 「関係ないことをコメントしないでもらえます?」 と、私が言い出したら どういうことになるだろうか。 「関係ないことコメントしないで」 ↑これそのものが、 関係ないコメントじゃね? 自分の常識から出れないやつが 自分の常識に泥を塗りたくってまで 相手の常識を粉砕させなくちゃならないとしたら その感情とは、いったいどんなものなのだろう? 私がたどり着いたときは ここに【1】があるかもしれないという予想だった。 ともかく 良い行いとして自分が持っている常識は まず自分が実践してみせて賛否をうかがうものかは。 悪い行いだとして自分が持っている常識は 自分自身にきっちりと禁じて 他者にもそれを理解・合意を得たいならば明文化して それでも合意せざる常識なれば ティッシュのように、 風の向くまま漂うことにしてみようとぞ思いける。
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2020/08/05 14:02[web全体で公開] |
😊 すいようびのうた 水曜日の神さまが 他の曜日の神さまを 葬りさってしまう 礼讃歌(?)がある。 表面上はポジティブな印象、というのか 明るい気持ちになる、のほほんとしている、 そういうメロディや詞や曲調をしていながら その内面上は ネチャっとした不快なカオスとでもいうか おどろおどろしい不思議な狂喜を垣間見れる。 こういうテクニックが流行ったのは 21世紀になってからであろうか。 目の前に見せられている楽しげなものが 不気味なものでしかないという【何か】 おそらく、源流までさかのぼれば、 21世紀どころか、江戸時代の妖怪絵巻とか いわゆる百鬼夜行などもこの類にはなるのだろう。 いま、ふと、 ジャパニメーション映画の 平成たぬき合戦ぽんぽこ 千と千尋の神隠し パプリカ を、脳裏に描いてみたのだが、 やはりいずれも、そのパレードシーンが 「表面はパリッと」 「中はドロドロ」 みたいな印象がある。 よくよく考えてみると、 私自身がもっとも公式に認められた作品も 実はこの小技を使ったような覚えがある。 夏の季語というのは便利で 表面上あかるい印象を与えながら 中身はずどーんと暗い雰囲気を漂わすのに有利だ。 【夏の影/ファンデーションも/知らざりき】 お笑いや落語でも使う 「取り合わせ」という技法がある。 俳句や短歌、TRPGなどのシナリオでもつかう。 一見なんらの脈絡もないものを並べていながら 聞き手の脳裏にストーリーを発生させる技である。 友人にやらせるとすごいのが出てきた。 「ジャンピング赤ちゃんのスパナ」 そこにあるストーリーに気づいた瞬間 にわかに、二の腕が粟立つのを感じたりする。 今日は、水曜日。 脳内に、右から左から、 賑やかに情報が入り込んでくる日だ。
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2020/08/04 21:01[web全体で公開] |
😰 能動的と受動的(主体性と協調性) 「知の恥たる双子は、 黙すべきときに語り、語るべきときに黙す」 とかいう言葉がある。 言語の学問、 国語や英語の文法項目においては 自動詞と他動詞、とか、 能動態と受動態、とか、 いろんな名称をつけたりする。 今年4月には 「受動喫煙防止」を目的として 都内のほとんど全域でタバコが吸えなくなった。 これによって、私の手持ちのPCも 「それでも吸う」と言い張るやつと 「そろそろ止めどきか」と言うヤツとがでてきた。 さても、今回は、 ネット上の性格診断などででてくるときは 「主体性」と「協調性」などと呼ばれるものの実態。 前に私が書いた日記だと 「自分軸」と「他人軸」の話にも通じる。 主体性と協調性、どちらを優先すべきか、 という問題は その時と、場所と、場合と、 によって使い分けするのが本来で、 これを身に付けないで大人になると 「空気読めない」とか軽口を叩かれることになる。 主体性だけで突き進む傍若無人も恐ろしいし 協調性だけで何も決めることのない自己はありえない。 主体性により 自分の能力や才能を活用すべき場面はあるし 協調性により 場の皆に気を配って全体で一丸となる場面もある。 TPOとは time place occasions の頭文字のはずであるが、 日本人(特に男性)の場合、 タイム、 プレイス、 オカーサン、 の頭文字である可能性がある。 自分軸、他人軸にしても 主体性、協調性にしても おかーさんの顔色をうかがって 生きていかねばならないという少年期を過ごすと たいがい、見事なまでに、 論理的に優先すべき方向とは逆のことを選ぶ。 (もっとも、論理的に正しいほうが かならずしも最善とも限らないのが 人間社会ではあるが) 空気を読むとか察するとかいうのは、 言ってみたら 「おかーさん以外に おかーさんを観察するように観察すべき他者」 を、数限りなく頭のなかに置いて整理し かつ その最大公約数から 自分のいまあるべき主体性と協調性のバランスを 決定するようなものである。 PCのキャラづけをするとき 主体性と協調性のバランスを、どうとるか。 主体性よりのキャラでも、 協調性よりのキャラでも、 ある事象に対してだけは逆の軸で! というポイントがあったりすると深みが増す。 もしくは、本来の人間にはありえない 主体性まったくなし、なり 協調性まったくなし、なり ということも、実はキャラであればできる。 そして、 「語るべきときに黙し、黙すべきときに語る」 主体性と協調性を、ことごとく逆にやるキャラも 作り出すことは可能である。 ……もし、 ことごとく逆のことをやるキャラしかいない あるいは、主体性と協調性のバランスが さほど変わりがないキャラばかりであるとするならば それは、それを作り出したPL側が およそそういう性質しか持っていないことに他ならない。 キャラ紙を数枚みると 思いの外、その人間の偏りかたは出ているもので 相性というのか、 「この人とは卓を囲むべきではないな」 というのも、なんとなく見えてくる。 (もちろん逆に、 どんなキャラでくるかな、と楽しみになる人もいる) ゆえに。 参加応募したときに もしかしたらこちらもハジくことがあるかもしれないが それはお互いに不快にならないための関門であって あんまり気に病まないでいただきたいと願う。
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2020/08/01 02:44[web全体で公開] |
🤢 管理矯正という教育 いまさら私ごときが論じたところで あまりにも詮なきこととは思うのだが、 TRPGをやる人間にとってのコレは 扱いが非常に難しい。 「みずからの縄でおのずから縛る」として 『自縄自縛(ジジョウジバク)』というが 自分で見えない縄を張り巡らして 気づかずに、または故意に 自分がそれに絡めとられる、という事態は 感受性が豊かな人間ほど つまり、幼いうちから 首輪をつけられていた人間ほど それから逃れようとして、 かえって身体に巻き付いたり 締め上げられたりするものなのかもしれない。 私は 「私の頭のなかに小さな私をすまわせている」 という喩えをよく引き合いにだすのだが、 ここに自縄自縛をくわえると 時限爆弾のついた 動かない机と椅子に両足を縛られ 目の前に集中できるような、 パズルだとか知恵の輪だとか キューブだとかを置かれ、 縛られていることを忘れている あわれな自分自身を幻に見ることができよう。 気の毒ではあるが、 まあ、それはそれで ひとつの人間のありようなので いまさらどうこうしようとも思わない。 時として、 自分にとって必要な縛りを課している場合も 多々あるであろうことをなんとなく思うからだ。 さて、机のうえに 集中すべき「キューブ」がある。 「謎」といってもいいし 「悩み」といってもいい。 解けるはずだろう、と思いながらも どれほどやっても解けない、とも思う。 この場合の選択肢。 あなたなら、どうするだろう? 「もうちょっと集中すれば、あるいは」 と、思うだろうか? 「ちょっと気分転換すれば、もしかしたら」 と、思うだろうか? 「ちょっとだけ人の意見をきいてみたい」 と、思うだろうか? 「何かヒントはないかな」 と、思うだろうか? 私の場合は、 それを想像のおよぶ限り分析することから入る。 「もうちょっと集中したい」である。 このタイミングに、 他者のアドバイスが入るとブチキレる。 いや、さすがに歳が歳なので、そこまで激昂はしないが、 「いま、おまえの意見が何か役にたつの? 同じ机と同じ椅子で 同じ時限爆弾に繋がれているわけでもないのに?」 と感じることは間違いない。 これをやると、 たいがいの場合、自分の縄が身体に食い込む。 そういうときに ちゃんとした師匠がいると良い ような気がしたりするのだ。 「似たような机に、似たような椅子、 似たような時限爆弾を抱えながら、 それに似たキューブを攻略したことがある」 人物で、かつ 「私の頭のなかの私が、 それを攻略するための努力をしたことに理解できる」 人物であれば、それは望ましい。 現実に、そんなのはまず滅多にお目にかからないので 単に「自分が目指している方向に立っているらしい 尊敬できる」人物であれば、 それだけでも充分にすばらしい。 時に、まったく違う視点から。 「おまえの、この部分の縄は、必要なかろう。 それを達成するためには、こっちの縄のが適切だ」 とする、新たな縄で拘束を受けることがあるが、 そもそも、集中していたから 「自分が自分をどう縛っていたか」 すら自覚できていなかった場合は、 それすらもとてつもなく有効だったりする。 自分自身を管理するはずの縄が、 自分自身をとんでもない方向にねじ曲げているとき。 気づかなければいけない縄に気づけないとき。 というのが、 我々はしつけや教育の名のもとに いつの間にか刷り込まれているために、 かなり高い頻度でおとずれる。 優雅な翼を持っていること、 縄そのものを解くために必要なものは ちゃんと揃っていることに 自分では気づけないのだとしたら。 頭の外の私を少しだけ動かして、 誰かと会話をさせるのも手段のひとつだと思われる。
愛善院 | |
2020/07/31 07:54[web全体で公開] |
😆 ベクトル&ビクトリアス ある方向に力の作用が加えられる。 これが、すべてのはじまりだった。 そういえば、 お若いかたがたには、 おはじき、ビー玉、ベーゴマなどという遊びは なかなか体験しないものなのやもしれず。 ジェネレーションギャップの激しい私は じゃっかんゲートボールに傾くが ビリヤードが流行ったのは私より少し若い世代か。 それら古くさいかもしれない遊びを幻視しながら TRPGというものを見つめてみようと思う。 ゲームをゲームたらしめる要素とは何か? 複数の答えがあるはずだが、 そのなかでも今回は 「主体的に力を加えて 利害の関係性を有利にしようとする者がいること」 だけを特に注目する。 前提的にまず 家庭用コンピューターゲーム、 特に20世紀までの自己没入型のRPG…… 言い換えれば「ひとりプレイRPG」 から考えていこう。 ゲームの上の利害の関係性は、一方通行に近い。 さあ、ここにゴールを用意した! より良く、 より楽しく、 より充実して、 ゴールを目指してくれたまえ! プレイヤーは、 プログラミングされたそのルートから 大きく離れて有利になろうとすることはあまりないし 大雑把な話ならば、それこそが面白いのが これらのゲームの特徴でもある。 ただ、これが次の世代に引き継がれると いわゆる「課金問題」へと発展していく。 軸違いの相関ベクトルが存在していくものだが、 さあ、ここにゴールを用意した! より良く、 より楽しく、 より充実させて ゴールを目指そうと思うならば 金銭がそれを可能にしてくれるよ! 有利になる方法に 違う軸が加わったことによって そのプレイヤーたち、そのなかでも 「ひとりプレイRPG」にのめり込んだ人々は特に さまざまな賛否両論を展開させた。 端的なポイントとしては、 ゴールするために有利にする手段であったものが いつの間にか手段がゴールになってしまっていた という、 新たな軸ベクトルに引っ張られていった人々が 少なからずいた、というところであろう。 ここ近年(5年くらい?)は、 そうした「課金ゲーム」のクオリティが 大きく下がっているらしいとの指摘もある。 さて、TRPGに話を戻すと。 さらに、私のシナリオのパターンにまで話をとばすと、 そもそも 「ゴールすら設定していない」ものすらある。 いや、まっとうなシナリオであれば ゴールは作るべきものではあるのだが、 ゴールがあるにせよ、ないにせよ どちらにしても PLPCが、何をしたがるか、何をしようとするか に、シナリオを極めて依存させる。 これは 「ひとりプレイRPG」では あんまりできない。 (逆に、PLが何をしようとするかを、 極めて緻密に組み込んでほぼ一本道にする) TRPGならば、そこが、ゆるい。 さらに複数の人間がいるので 目指そうとしている (PLが見えている)ゴールすら てんでバラバラであることもある。 このあたりを どう決着をつけさせるか。 これこそが、物語であり、 ストーリーでもあると思うのだ。 (ただし、 極めてPLとGMの力量を問うので 展開テンポが重くなりがちになることもしばしば) 一石をとうじる。 ある方向に力が加えられる。 そこから、 おはじきの群れが、おはじきの個々が どの方向に行こうとするか。 そのためにGMはどんなことができるか? すべてのはじまりは これでしかないと考える。 とある初心者講習セッションのログに このような言葉があった。 「GMは敵ではない 一緒にストーリーを作るうえでは仲間だ」 賛同したうえで そういう仲間がひとりでも多くなるよう、また、 そういうセッションがひとつでも多くなるよう 願ってやまない。
愛善院 | |
2020/07/28 07:37[web全体で公開] |
😍 脳内映像とエモーショナル https://trpgsession.click/community-detail.php?i=commu158879520687 宿場町 オンセン道中 六歌仙コミュニティより 【@】週変わり 出された題で 歌を詠む <86・ぞうさん>題は「エモい」 【玉作】 日曜日赤丸の下に書いてある君の手書きで「世界滅亡」 【感想】 ときとして「定型詩」の短歌俳句の世界は、これこそが究極のワザであり極意。そこにある映像を『描写』することで、そこにある『背景』に、多くの人が、多大なる妄想を膨らませることができる状態を作り出すこと……! 難しい言葉はひとつもないどころか、簡単だからこそそこに奥行きが発生する。「日曜日/赤丸」どちらも難しくはない、組み合わせたときに、私は、カレンダーを想像した。おおよそ間違いはなかろう。何かの記念日なのだ。 そこに目を凝らす。「書いてある」……すでに書かれていた、いつからだろう、詠み手が知らないうちに、だ。さらに押す……「君の手書きで」、書き込んだ人物の、字のクセ、筆跡を、よく知っている関係性なのかもしれない。 歌の世界で「君」は、単純な二人称ではない(むしろ三人称だ)。自分が注目を注ぐ相手、深く感情を持つ関係性のときに使う圧縮言語だ。 すでに書かれている『君』が間違いなく残した言葉は。 結句に、どんっ、と、脊髄に響く重低音が置かれている。「世界滅亡」 短歌の世界をカメラワークでとらえると、盛大な映画予告を見たような気分になる。カレンダーの映像、詠み手(主役)が、それに近づいてくる、ピンナップでカレンダーの日曜、赤い丸、主役の顔から血の気が失せていく、最後に大写して「世界滅亡」。こんな映画があったら、みてみたい、TRPGシナリオに参加したい、と思うような、完璧な作品のひとつだと思う。
愛善院 | |
2020/07/26 00:54[web全体で公開] |
😊 ぺらっ 紙媒体の本であるとかノートであるとか もしくは、ゲーム内や動画内での ページをめくる音、もしくはSEを こよなく愛しく思うのである。 あんまり数理の話をしてもダルいのだが ページというのは、一過性の第4軸だと思う。 次のページを読みたいと思ったり または、 前のページの記憶を全て消し去りたいと思ったり。 TRPGの「R」は「roll」であるか「role」であるか? どちらも語源は同じだったようにも思うが 我々の生きる時代。 中途半端に3次元で、 中途半端に4次元のわれわれには 時間にどれほど名前をつけて区切りを与えても 一方方向にしかベクトルは進まない。 さて、 私こと愛善院。 体重40キロ代前半に突入した。 通常成人として肉体を組成する限界が そろそろ近づいて来ていると思う。 この身体は、脳の燃費が悪すぎる。 そうした意味で、私は身体がペラい。 また、いつも日記を読んでくださる方々には 口さがない、ペラペラ喋るヤツだ との印象もあるやもしれぬ。 「ペラい」 つまるところ、この言葉は 表面的である、2次元的である、薄っぺらである、 外面や体裁だけを取り繕った深みのない、 などなどのネガティブな意味を見ることができよう。 もし、 それをめくって次に何があるのかを期待しないならば。 シナリオ作成のひとつの方法論として 考えてみてほしい。 まず、骨(ネタ)がある。 そこに、皮(表現)がある。 ここに、ある程度の筋や関節(つなぎ)があれば 私の外見のごとく『ほねかわ=すじえもん』という名の 薄っぺらい人体模型ができあがる。 そこに肉(おくゆき)を加える。 ……もっとも、太りたくても太れない人間もいる。 脳(ギミック、しかけ)を与える。 一見すればグロテスクな あらゆる内臓(シナリオを有機的にする機構)を完備する。 できあがるのは ひとつのシナリオ、 対話すべきひとつの人体。 その人との対話を完了し、 ぺらっとめくると どれほど時間がたっていたのか、 後ろにもうひとり、 対話すべき人が来ている……。 さて、また逆に。 時間がないとき、 充分な対話を必要としないとき。 人体模型は、必ずしもいつも 半身半面(皮・筋肉)であったり内臓を晒すこともない。 時として、 「無駄な贅肉を削ぎ落とせ」という言葉があるが 骨格標本だけだって、相対する相手によっては きちんと、その意味を理解してくれるであろうことに 我々は思い至らなくてはならない。 ……スケルトンは 実は「その奥にまだ何かあるな」とやるのに 肉がついたものより有効だったりすることもあるしね。
愛善院 | |
2020/07/25 01:09[web全体で公開] |
😲 さぷらーいず、みー! 「おどろかせてくれ!」 どちらかといえば、ポジティブな意味で 嬉しい予想外、想定以上の興奮、 ユニークで 独創的で 未知なるものを期待するときの言葉かと思う。 ときとして 何年もの時間をついやして その一瞬のサプライズを用意することもあれば さっき思い付いたことを 思い付いたまんま言うだけで相手を驚かせることもある。 才能やセンスだけではなんとかならない場合もあるし 努力と工夫だけではどうにもならない場合もある。 どちらか片方だけでも、 ないよりはあったほうが、 よりサプライズを起こせるだろう。 しかし、実際は、そこに 「ただしイケメンに限る」 が隠されていたりする。 (もっとも、この場合のイケメンとは 外見をのみ指すものでもなかろうが) センスや努力。 そのまえの大前提として。 サプライズを作りだす人の 人間的な魅力、 人を惹き付ける愛嬌、チャームの部分、 どれほど周囲に影響を与えられるか という部分が、才能や工夫の土台になっている。 ……これを 適切に自覚の中に置ければ 才能も工夫もセンスも努力も 最も充実した形で結実させることができるのだろうが 何十年生きても、 これを明確に自覚できることも また少ないような気がする。