愛善院さんの日記

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日記一覧

愛善院
愛善院日記
2020/06/26 13:44[web全体で公開]
💀 語彙力やべえ

あるシニフィアン(記)を受信した際に、シニフィエ(義)を適切に脳裏に描ける能力を、読解力という。

と、昔、教師をしていたころ、これをこのまま(当時、インターネットすらコンニチのように普及しているとはいえない状態の)中学2年生に向けて授業をしていたのであるからして、私は語彙力がない人間だということがよく分かる事例といえる。

そもそも、日本語は語彙が多すぎる。
上下の身分状況を明確にするための敬語、落語などを発端に「その人物らしい発言」をデフォルメした役割語(キャラクター語)、華族言葉、女房言葉、武家言葉、警察用語、ギャル語、ネットスラング、各地方言、などなどなどなど。

対話者の関係性によって、ありとあらゆる使い分けが必要となる。
教師と生徒の関係性の場合、生徒を主体に語彙構成を作り直さないと伝わらない。「伝わらない語彙を選択する」というのが語彙力のなさである。

ゆえに、私は次の年、読解力を教えるときに
「きみら『こんにちは』と言ったときに『クァンガルゥーウッ』って言われたらどうするよ?」
というところからはじめることとなった。

あれから、かれこれ。
私の語彙力は、一向に成長しない。

と、今朝書いた日記をたまたま読み直して、あまりに長文なことに目眩を覚えたというだけの話であった。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/26 07:49[web全体で公開]
😟 書くべきか喋るべきか
音声言語は表記言語に優先する。
という、言語変化の大原則のひとつがある。

日本語でいえば「口語」と「文語」の違いなのだが、
単に「文語」といってしまうと
「古文」のことだけを指す場合があるので
明確に区別するため、ここでは
「音声言語」「表記言語」と称す。


音声言語が表記言語に優先するのは
考えてみたら当たり前の話で、

知能を持ちはじめた猿が何かを他の猿に伝えるのには
最初は声を出したであろうという類推だ。

……最初から壁画を作ったり、結び目を数えたり
という段階からはじまった、とは考えづらいのは

声は、複数に、その場の、その瞬間に
何かを伝えるのに効率的であったからである。
この場合の「何か」は、およそ「本能」に直結する。
つまり、群れに危険を知らせる生存本能が
声帯を発達させた。

もし群れに危険を知らせるのに、
壁画を書き始める猿がいたとしたら、
その猿はおそらく、天才ではあったのだろうが、
その場の、その瞬間に居合わせた危険に
取って食われて滅亡していることであろう。

表記言語は、瞬発力がない。
表記言語は、ほとんどの場合、
絵のようなものからはじまり
絵の略号のような状態を経て
音を模写するのに最も適切な記号文字へ
と、進化していくのが普通なのだが、
ともかく、最初は絵だ。

描く(書く)のに、時間がかかる。
つまり、その場にいる伝えたい相手が
飽きてどっかいってしまう。

その瞬間に伝えねばならないとき
相手がそれを見ていなければならない、
というのは、

視覚という危険察知のための機能を
一瞬でもそこに費やさねばならない、
という浪費になりうる。

一方で、もちろん、表記言語にも利点がある。
一度、その場に残せば、
遠い未来であろうとも、
意味が分かる誰かが現れるかもしれないという点だ。

その場にその(表現された)瞬間にいる必要がない。
書き終わったころ見にいってもいいし、
伝えようとした人が死んだあとでもいい。

同時に複数人が見ることが不可能でも
(現代では複数人はかなり容易だが)
時間的な猶予があるので、
前の人が気が済むまで見たあとに見てもよい。

この、時間的な猶予が最大の利点であり、
むしろ猶予がない状態でそんなことはできない、
という、最大の欠点でもある。

この、2つの言語運用によって、
人間の脳はかなり無茶苦茶になってしまった。

一気に現代までとばしてみると
われわれの「しゃべりことば」(つまり音声言語)と
われわれの「書き言葉」(つまり表記言語)とは
怪奇な乖離がある。

日本語は特に、そういわれる。

ある一定期間、不変で存続しつづける「表記言語」は
その瞬間、その場でしか成立しえない「表音言語」に
簡単に置き去りにされてしまうのである。

おそらく、いまだに「国語」の授業では
かつての名作を読むということがあるだろうし
文章を構成するためのルールとしての「文法」も
存在するはずだ。

が。

それらで扱うのは
普段しゃべっていることばとは、微妙に違う。
ズレている。

……いま「ズレている」
と、表記言語化したが、
たとえば無意識なしゃべりならば、これは
「ズレてる」
「ズレとる」
とやっている可能性がある。


ロールプレイングに慣れるのには
テキセのほうが有効である。
これは時間的猶予や存続性から
おおよそ外れではない。

が、向き不向きはある。

しゃべりことば全開で表記すると
そこに無茶ができる。

ネイティブの津軽弁あたりを(音声記号をつかわずに)
日本語で表記しようとすると
黒魔術の呪文になることがある。

「かっふぇ かした えん かふぇら」

これはこれでキャラ立ちはしそうだが
ものごとを確かに伝えねばならないとき
シナリオを明確に進行させねばならないとき
などなどで無意味な苦労がともなう。

考えてみれば、キャラクターによっても
テキスト向き、ボイス向き、
という違いは結構あるもののようだ。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/25 22:09[web全体で公開]
🤔 1と0。その間の無限
(当日記記事はAF問題に対する意見を意図していません)



クズ卓の動画であったと思うが

KP「鍵がかかっています」
PC「おれはかかってないと思うね」
KP「鍵がかかっています」
PC「かかってない!」

というやり取りがあったと記憶している。

これだけ単純明快な
テーゼとアンチテーゼも、そうそうあるまい。
(むしろ、実際に繰り広げられたら貴重すぎて発狂しそうだ)


しかし、ものごとを極めて率直に二元化すると
こういうものであることは多い。

ある単語があり、
それをポジティブとするかネガティブとするか
というのもそんな感じであろうか。

例えば「陽キャ」とかいう単語がある。
世間の一般的な解釈とすれば、
これはポジティブなものだと思われるのやもしれない。

が、言語学的にいえば、
こんなのはシニフィアンにすぎない。
ひとりひとりの言語フィルターを通せば
純然とポジティブな意味にもとれるし
頭がポカポカした人くらいの意味の
ネガティブな嫌味であったりすることもある。

よくネズミの国では
「大切なお客様」という言葉を使うのだが、
これなども、
世間の人々のフィルターを通せばポジティブなわけだが
あの国だけの言葉のネガティブな側面は
「問題行動を起こしがちな常連」のこと、
とかいう、都市伝説もある。

「ポジティブ」「ネガティブ」だけに限らず、
われわれ人間はよく二元化をしていたりする。

ある方針に対して「賛成」「反対」
これは原始的ではあるが普通に政治だ。

ある行動をするのに「吉」「凶」
これもまた、原始的ではあるが生活型の宗教事象だ。



では、鍵のかかったドアは?
クトゥルフであれば「鍵開け」などと
すぐに閃くものであろう。

「自動成功」か「自動失敗」

それ以前に
「KPが鍵が壊れていると提示する」か
「KPが何をしても開かないと提示する」

……

世の中の出来事の全てを二元化することができれば
世の中は相当に整理整頓されることであろう。

しかし、そうではない。
(かつてのキリスト教カトリック社会が挫折している)

「ポジティブ」と「ネガティブ」の間
「賛成」と「反対」の間
「吉」と「凶」の間
「イイね」と「わるいね」の間
「好き」と「嫌い」の間
そこには、ありとあらゆる価値観がある。

「真」と「偽」の間には「嘘も方便」
「聖」と「俗」の間には「入道」
「正」と「邪」の間には「できごころ」
「善」と「悪」の間には「デスノート」
「光」と「闇」の間には「りんご」
「美」と「醜」の間には「母の日の似顔絵」


「自動成功」と「自動失敗」の間に「ダイス」


さて、では。
「自分」と「自分以外」の二元化をしたとき
アウフヘーベンとジンテーゼとは何であろう?


こねくりまわして
一応、答えらしいものは得て来たつもりではあるが
いろんな人の価値観が、どんなことを考えるのか
興味深いところである。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/25 00:19[web全体で公開]
😭 お詫びと釈明
昨日の夜から今朝未明にかけて、
数回にわたり日記を書いた。

さて、これにつき、
昨今の「AF問題」の当てこすりである
という指摘を数点いただいた。

慎重な検証を重ねると、
そう読み取れても不自然ではない部分が多く散見され
もし、同様に、私の日記が
「AF問題への意見である」かつ「一方的で不快だ」
という感情を持つかたがいるのならば、
心よりお詫びもうしあげる所存である。


以下釈明、
私は、基本的にオフラインの人間であるため
AF問題というものの全容をつかめていないし
また、多くのかたがたの日記を拝読し、
それがいかなる破綻をきたすのかは想像できるが、
実際にその行為を見たわけでなし、
それによる損傷の度合いをつぶさに理解できるでもなし、
ほぼ門外の人間であるので、
その問題に関して
私見を述べる立場にないと自覚している。

それぞれの日記は、
自作用のシナリオのネタ帳を開いたときに

このネタはこう使ったな、
このネタはKPが読み込み深かったな、
このネタは深入りするとこうなるのかな、
このネタとこのネタは逆のことをやらせてるが……、

などなどの千切れ雲のようなものを
辛うじて書き留めたものにすぎず、

AFシナリオ、AF作者、AF使用PLなどなど
AFに関わる人や表現物を評論するものではない。

間の悪いことに、
執筆側の脳が、昨日の夜から活性化していたため
シナリオを書いて一息ついては日記を書き
日記を書いては閃きを得てシナリオに戻る
という逆スランプに入ってしまったため、

無駄な連投におよぶこととなった。


これにより、お見苦しかろうことは
想像に難くなく、ひとえに陳謝する所存である。


また、これより、
当該、指摘を受けるであろう範囲の自己の日記に対し
それぞれ文頭に、AF問題の話題ではないことの明記をして、誤解を避ける心算である。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/24 10:12[web全体で公開]
😆 アンチ
(当日記記事はAF問題に対する意見を意図していません)

あるテーゼが私の中に生まれる。
同時に、私はアンチテーゼを産み出さねばならない。

少々、古い人間なもので
私はこれを中学校で習ったのだが、
雀百まで踊り忘れず、というもののようだ。

子どものころ、よくこれを仲間内で遊んだものだが
ゲームを作る側になっても、
おおよそ、おんなじことをやっている。

むしろ、
アンチテーゼが出てこないときのほうが、
不安になってしまう、という職業病かもしれない。

企画会議をするとき、
「アンチを3つ以上だしてくれ」
と、同僚や部下に頼むことすらある。

現代で言えば
トイレットペーパー並みに、ないと困る。

試行錯誤はそれなりに慣れているので
ある程度のアンチテーゼの提出は
いわゆる想定の範囲内におさまる。

が、ときたま、
自分の視点では発見できなかったアンチテーゼが出る。

これが、非常に嬉しいし楽しいし、
テーゼそのものにとっても価値がある。

絶望的な課題であり、
大いなる希望でもある。

私にとって思索の時間は至高だ。

実際、褒め称えられるよりも
アンチが沸くほうがご褒美なことが多くて

……少々、人間としてはアブノーマルである。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/24 06:51[web全体で公開]
🤔 真善美
(当日記記事は、AF問題に対する意見を意図していません)


わたくしこと、吟士(詩吟を吟ずる者)でもあり、
常々、タイトルにした「真善美」を吟じるのだが
要するに「価値観」と言い換えてもよい。

さて、この価値観

多くの人が理解するように、
価値観というのは人それぞれである。

そろそろ、日本人も
その一歩先に歩を進めるのはどうか、
と思うことが、最近おおい。


価値観が違う、ということは、
「わたしのほうが真理に近い」
「わたしのいうことは善だ」
「わたしの美しさを思い知れ」
と、主張できるということである。

私にいわせれば
「あなたの価値観ではそうでしょうとも」
「でも、あなたの価値観は、あなただけのもののはず」
「あなたではない他者は、それに従う謂れも、
従わなければならない必要性も、本来はない」


ただ価値観をぶつけて木っ端微塵になるなら
止めはしないけれども、
価値観が人それぞれである以上は
価値観を押し付けたときに
拒絶を受ける。

その覚悟はそれなりにしておくほうが無難だろう。

ここで注意が必要だ。
あくまでも【拒絶】である、という点。

あいての価値観を「否定する」のではない。

あいての価値観を否定し続けると
価値観は人それぞれであったはずが
いつの間にか「自分の価値観に勝るものなし」になる。
極論、
あなたの価値観に世界が染め尽くされる。
それは平和かも? しかしパラノイアのような
面従腹背もまた起こるやもしれず。

そうではない。
あなたの価値観は、それはそれで良い。
しかし、わたしの価値観には必要ないので、拒絶する。
これはあなたの価値観を否定するものではない。

(もっとも、否定したところで、
他者の価値観など壊れるわけはないのだが)

あなたはあなたの価値観を大切にしたらよい。
わたしはわたしの価値観を大切にする。
互いに拒絶があるならば、
それはそこまでのことだ、さようなら。
互いに妥協ができるのならば、
そこをなんとかしさえすればよい、
互いに協力と努力をしよう。
互いに共有している価値観があるならば、
それをもとに手をつなごう。

これは、拒絶を受けたときも。
へこたれる必要は、実はあまりない。
どうせそれくらいでは、価値観は凹まない。

あいての価値観を
ぶっつぶそうと躍起になることは徒労にしかならず、
自分の価値観を押し付けて
あいての価値観の変容を試みるのは効果は薄く、
ならば、自分の価値観を大切にするように
あいての価値観をもまた、それはそれで良きことと。


もし、価値観が接触しそうなとき、
価値観の押し付けあいがおきたとき、
自分の価値観は「はぐれメタル」だと思うがよろしい。
逃げ足ははやいし、硬すぎてダメージを受けない。
ある程度変形自在だし、
座った目であいてを観察して、
無意味に口に微笑みを絶やさない。

会心の一撃をくらっても、
心の内側からいつの間にか沸いてくる。

自分の価値観というものは、
そういうものだと腹をくくっておく。

そして同時に、
あいての価値観も、
おびえていてHPも低い弱々しい生物かもしれぬ
と、思っておければなおよろしい。

どこぞのティッシュのCM文句ならば
その価値観の衝突の際に
「やさしく触れていいですか?」
というレベルで話しかけねばならない。

ナウシカとテトの出会いのように
最初の接触に痛みを伴うかもしれないが
「おびえていただけなんだよね」
くらいのつもりでおらねばならない。

あいてを、
噛みつきもしないG的昆虫のごとく見なし
なんらの価値観も持たないものだから
叩き潰しても構わんだろう?
という価値観もあるかもしれない。


一匹みたら、壊滅させるの難しかろうよ。
自分と違う価値観の人間を
全てG昆虫だと思い込めるようならば、
それは人間を辞める覚悟をするということでもある。

さてさて、
あなたは今日を正気で乗り越えることができるかな
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愛善院
愛善院日記
2020/06/24 03:15[web全体で公開]
🤔 エキジビショニスト
(当日記記事は、AF問題に対する意見を意図していません)


端的にいって、
とある薬品が手に入って、
股の間にあるものが、
ある日から巨大な根となって、

ドヤァ、でも、
イキり、でも、
俺TUEEE、でも、
ともかく、その部分にだけ自信をもって
それを見せびらかしたくてたまらなくなって

駅とかスーパーとか公園とかで
全裸で徘徊するようになったら、


客観的にみて、どう思うかね?


日本の場合、他者に実際の被害がなくとも
公序良俗、特に、子どもの健全さを守る必要性から
ある一定の行為は罪として定めているのだけれども、

(昨今話題のK.ワタベなども、
ここらへんに抵触してしまう危険があるので
とても心配なのだけれども)

それでも、あなたの自信があるのは、
そこだけ?
だとしたら、あまりに気の毒なことだ。

そんなことをしなくても、
あなたは魅力的になれるだろう。
そんなことをしなくても、
あなたは自信をもてることが、
他にもたくさんあるだろう。

そんなにも、
巨砲を人の目にさらすスリルと快感が
忘れられないというのかね?
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愛善院
愛善院日記
2020/06/24 02:00[web全体で公開]
😰 わたしが楽しむための庭。
(当日記記事は、AF問題に対する意見を意図していません)




とあるエジプト神話の神様の、み言葉。

「わたしが楽しむための庭なのだ
それを、わたしは、私自身でつくりだした」

人間や他の神を
そそのかしたり、おどかしたり、使役したり、
その他ありとあらゆる「他者への依存」をせず

この神様は、自分が楽しみたいからそうしたのだそうだ。


ぶっちゃけ、スゴくね?www
わたしたちが生まれる4000年くらい前の言葉だ。


人間生活は歯車のようなもので、
歯車には主軸がある。

いわく、
自分自身が動力となって他を動かす「自分軸」
他の動きから連動をうけて自分を動かす「他人軸」

どちらか一方に偏ると、たいへん生きづらい(ハズだ)
ことに、TRPGに関しては、

片方だけであってはならない。


先に、私はエジプト神話の御言葉を引用した。
GMが自作シナリオをひっさげた状態に似る。
ここまでは、自分軸だ。
(時として「こんなシナリオ作って」もあるが、割愛)

さて、その庭に、人間がやってくる。

その人間たちも楽しんだ。(シナリオ企画の成功)
なら、神はお喜びだろう。

一部の人間は楽しんだ、しかし、一部は
こんな庭がなければいいのに、と呟いた。
(シナリオの一部ダメ出し、企画の否定など)
それならば神は悲しむだろう。

人間たちは、他のことに夢中で
その庭には目もくれなかった。
(シナリオ崩壊)
神はひとりさびしく思うが、
それでも自分の楽しむ庭は損なわれていない。

TRPGは、他者を庭へ招かねばならない。
その時点で、自分の力だけではまわらなくなる。
どうしても他人軸の力は必要となる。

神とともに楽しむものはいないか、
となりあう人間と楽しむものはいないか。

神の望みをかなえ、
おのれの望みをかなえ、
他のおおくの人間の望みもかなえ、

この庭を目にしたものが、
同時に楽しみに至るために。

その庭は、もとは神が自身のために作った庭だ。
神自身が楽しむために。

その庭へ、楽しみを求めるならば
あなた自身が楽しみ、また余力があれば
神を楽しませ、となりにいる人間をも楽しませて
そこを楽園とする努力がついてまわるだろう。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/23 23:25[web全体で公開]
😢 ゲシュタルトの祈り
(当日記記事は、AF問題に対する意見を意図していません)


あなたは、あなたのことをする。
わたしは、わたしのことをする。

あなたは、わたしのために生きているのではない。
わたしは、あなたのために生きているのではない。

あなたは、あなたである。
わたしは、わたしである。

しかし、もし、機会があって
あなたとわたしとが出会うことがあれば、
それは、すばらしい。

もし、そうでないとしても、
それは、もともと他者であるのだから
当たり前のことである。




という、心理学の言葉がある(長い)。

この言葉から類推したとき

TRPGで(日常生活にしても)、
絶対的に否定すべき心理は、
「あなたは私の思い通りになれ」
であろうか。

GM側であろうとPL側であろうと、
他者がいかなる行動をとるかは分からない。


まるっきり、思い通りにならないとき、
どんな手段がとれるか?

まるで幼稚に駄々っ子のようにわめきちらすか
まるで毒親のごとく自分の言うことを聞かせるだけか

それとも、相手の立場や目線に互いに近づいて
妥協点を探す方法を探しだすことができるか。

仏教だと、これを「同時」とか言うらしい。
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愛善院
愛善院日記
2020/06/22 03:01[web全体で公開]
🤔 コミュ能力とか語彙力とか日本語力とか
(当日記記事は、AF問題に対する意見を意図していません)



あるシニフィアン(記)がそこにあるとき、それを知覚した瞬間にシニフィエ(義)を脳裏に適切に描くことができる能力を読解力とする。
TRPGに慣れると、文章を読んだり、誰かが発言しているのを聞くだけで、頭のなかにその風景が見えてきたりする(という人は少なくないはずだ)。
これの逆、できるだけ多くの人の頭のなかに映像を送れるように、言葉をあやつり、相手に知覚をもたらす能力を描写力(表現力)とする。

実は、コミュ力だろうと語彙力だろうと日本語力だろうと、最低限はこの2つのみによって構成される。

手練れてくると忘れがちになるもので、この2つをないがしろにして、感情や衝動だけを漠然と言語化することがある。

喩えると、タロットのチャリオット(逆位置)に似ている。車輪が外れているのに、威勢よく吠え猛る騎乗槍の戦士だ。
相手に近づけないのでその場で勢いのない槍を振り回すしかない。推進力がなく、敵に囲まれた気になってしまうので、目的としていた地点がどこであったかを忘れて、身を守ることに専念する。

これは人間として、きわめて大事な防衛本能だ。身動きがとれないとき、自我が壊れそうなとき、威嚇して他者を追い払ってから車輪を直す。元のようには走れない可能性もあるが、それでも釣り合いをとろうと自分でなんとかするならば、それはそれで非常に大切だ。また、ふと気づいて、周りが敵ばかりでない、車輪を直すのを手伝ってくれる人が多いことに気づくと、なおはかどる。

1番の問題は、目的が「目的の地点に到達すること」でも「自己を防衛すること」でも「車輪を直すこと」でもなくなり、全てを「自分のせいではない」または、全てを「周囲にいる者どものせいだ」と、責任を転嫁して、槍以て周囲に殴りかかることだ。責任転嫁が目的にすりかわってしまう。

車輪が外れた瞬間の、焦りや孤独、ともすれば、恥ずかしくなる、穴があったら入りたくなる、自我が崩壊寸前になる、という気持ちは、人間として起こりうる。
それを怒りにかえる、悲しみにかえる、感情を押し込めてしまう、のではなく、素直に受け止めるところができたとき、ただチャリオットに乗っているだけのお荷物でない、自分自身に操れる車体とその実力に誇りをもった戦士となることができるであろう。
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